大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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阿川佐和子著「強父論」を読んで 

昨年の夏に94歳で亡くなった阿川弘之のことを娘の阿川佐和子が描いた「強父論」が滅法面白かったです。彼女の文章の旨さもあるのでしょうが、暴君の父親を描きつつ、その父親に対して娘であり女である彼女が持っている“屈折した”愛情や敬愛の感情が、そこはかとなく鳴り響いているような本でした。読み進んでいるうちに、腹を抱えて笑いつつ不覚にも涙が出てしまう個所がいくつかあるのです。「男と女」の複雑で不可思議な関係が「父と娘」の関係を通してその深みを増して迫ってくる感じがあります。

強父論写真


たまたま今年は幸田露伴の生誕150年で、娘の幸田文、孫の青木玉、そしてひ孫の青木奈緒という女系の目を通して語る露伴の番組をNHKで見ましたが、女性の力を通して継承され残されていく戦前の言語教養とか身体文化の価値とどこか通じ合うものもあります。男性より女性の方が、そういう、特に身体文化に価値を見出し残す力があるような気がします。男のことは女性の方が解るのでしょうね。

シンプルであること、一貫しているということ、こだわるということ、自分にも他人にも嘘がつけないほど不器用であるということ。こんな男は現代の社会では生きてはいけないでしょう。存在してもその価値が評価されるどころか同情すらされないでしょうね。天然記念物なみの存在でかつDVの加害者扱いにされることでしょう。

前時代的で諸悪の根源のような「男」や「父」がついこの前までの日本に存在した証が展開されている本ですが、もう一度「男」や「父」を考え、自分の一見ヒューマンな考え方の偽善を思った次第です。
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Posted on 2017/07/09 Sun. 22:52    TB: 0    CM: 0

小林麻央さんにみる命と死のこと 

小林麻央さんが亡くなったニュース。
いろんなことを考えさせられました。

あれだけ連日ブログで体調や心の動きが発信された有名人の死というのはあまりなかったような気がします。
報道によると200万人以上のフォロワーがいたとか。言葉は適切ではないけれど、まるで実況中継されていたような闘病生活でした。その一挙手一投足に多くの人が一喜一憂し、一緒に祈っている、“彼女の日常の共有”を感じました。

皆の(「国民の」と言い換えても良いくらい大勢の)願いと祈りも虚しく残念な結果になってしまいましたが、多くの人に勇気と、また命について深く考える切っ掛けを改めて与えてくれたように思います。市川海老蔵さんの会見で感じたことですが、死を覚悟した先に、常に周りの人に”与える側”になり続けた人。菩薩のように慈悲の心を多くの人に届けたと言うか、とにかく残された家族に刻まれたとても格好いい「往き方」と言うか、そんな人だったように思います。

もうひとつ感じたことは、ひとりで死んでいって、その死を人に知られないような、いわゆる『孤独死』との対比です。人は所詮ひとりで死んでいく運命にありますが、周りに人が居て、ましてや多くの国民に心配されながら命を落とす麻央さんのようなケースと比べてみると、本当に今回、SNSの役割の凄さと言うか、そんなものも思いました。トランプと比較するのは不謹慎ですが、死まで実況してしまうような、少し怖さすら感じる現象をです。

死が身近になると言う事とは違いますが、ある種の劇場型の死と言いますか、、、死とプライバシーという問題につながるもう一つの問題のことも考えました。これからこういう、ある意味「シェアーされる死」という現象がテクノロジーの発達で抵抗なく繰り広げられる時代がそこまで来ているのかも知れませんね。

昔読んだ「南直哉(じきさい)」の本に、”死には3種類ある”という言葉があったのをまた思い出しました。もう死んだあとは自覚できない「自らの死」、そして毎日ニュースで繰り広げられる「他人の死」。この2つの死はその人の死生観や宗教心に影響は与えても、やはり人生の中で大きな意味を持つ死ではない。その人にとって一番重要なのは「近しい人の死」である、という意味の文章です。

麻央さんの死は、残された家族にとってはもちろん身近な人の死ですが、実は多くの人にとっても「他人の死」ではなかったかも知れない。他人と身近な人を近づける手段にSNSがなっていたとしたら、それは新たな死との距離感なのかも知れないと。

僕にとっても「他人の死」を超えた何かを残してくれました。心よりご冥福をお祈り致します。

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Posted on 2017/06/25 Sun. 18:27    TB: 0    CM: 0

京都と「よそさん」 

しばらくブログサイトに入らなかったら、入れなくなってしまいました。パスワードの問題のようですが、どこでどう間違っているのかわからないまま、何度かトライして最後に入れました。自分が借りている部屋に自分の持っている(つもりの)鍵では簡単には入れないという現象に辟易している人も多いと思いますが、「自分とは誰」ということが自分でも自信がなくなる今日この頃です。



抱腹絶倒の本を読みました。若い時は京都に住みたいと漠然と思っていたものですが、歳を重ねるにつれてその考えが変わってきました。京都という街と何代も前からそこに住んでいる人に対して感じてきて、それをどう整理したらよいのかもどかしく思っていた事柄を明快に言葉にしてくれています。笑ってしまいますがまさにシンプルにしてその通り。


去年有名になった本なので読まれた方も多いと思いますが、身内や身近に京都の人がいたらおそらく賛同して頂けるものと思います。


正面から抜き身で切りつけない優しく見えて決してそうではない表現力であったり、決して断定しないことで相手を油断させてしまう言葉の技術、自覚していないほど徹底している自分や京都への自信、長い歴史で時の権力にうまく従いながら自らのアイデンティティーを柔軟に変遷させつつそのコアの部分を巧みに保全してきた卓越かつ成熟した政治と外交力などなど。


中華思想と言えばそれまでですが、文化が深く発酵しながらそのレベルをこれほどまでに高めた都市を日本人として誇りに思い、その自分の屈折した気持がいじらしくも悲しい気持になるのは、都から遠く離れた地で生まれ育った田舎者の証明なのでしょう。もうひとつのタイプの都会人である江戸っ子なら京都に違った感想を持てるのにとも思った次第。まあいずれにしても「よそさん」と呼ばれるのでしょうが。グルーバルがはやされている昨今、一読をお勧めします。言い過ぎていたら京都の人、ごめんなさい。


IMG_6012.jpg

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Posted on 2017/06/11 Sun. 23:00    TB: 0    CM: 0

トランプ現象 

トランプ大統領がついに誕生してしまいましたね。これが明るい夜明けなのか、ダイナミックな混乱の始まりなのかわかりません。
株の値段があがったと言う事は少なくとも閉塞感から解放されるという期待が先行したのでしょうが、どちらの可能性もあるので、“好奇心が満たされる”と言える程度には分析しておきたいと思っています。

色々言われていますが、まず驚いたのはメディアの役割が完全に変わったことに気付いたこと。そもそもかなり以前から「信頼できる」ニュース」というものと「信頼するかどうかの基準を持つ国民」というのが少なくなってきたところへ、今回のトランプのTwitter発信のド迫力です。大統領の記者会見なんか不要になってしまう。どんな情報でも信じる人がいて、どんな情報でも信じさせないこともできる。テクノロジーの発達は情報の位置づけを完全に変えつつある。

もう一つは『不満』のレベルを軽視し過ぎていたということ。それが大統領を生むほどに大きなエネルギーだったこと。もっと言えばトランプ選択のリスクより解放への期待の方がはるかに大きかったということまでわからなかったということ。

イギリスのEU離脱やこれから起こるであろうEUの解体ないしは各国の主権回復運動と合わせ、今年はパラダイム転換の年になるかもしれない。資本主義や自由主義は結局綺麗ごとで一部の人の利益にしかならなかったのか?資本主義がなかったらもっと貧しくなっていたのではない、という根拠が良くわからないのに、嫉妬や被害者意識という強烈な美酒に身を任している多くの人々。

“良識はどこへ行った”と最初思っていたけど、何が良識かということ自体がナンセンスな問いなんですかね。
国民の利益という曖昧で非現実的な言葉が跋扈して、他者の利益が自分の利益にならないということを正当化し、そのまま戦争が起こる大河の流れが生まれている、、そんな気がします。

トランプの言っているシステムは随分と昔に多くの国が経験して旨く行かなかったシステムなんだけだなあ、と先祖返りしている世界に深く悩んでしまう部分もあります。

“喧嘩すると考えてしまう方が負ける”ように、教育とか教養の価値が世界的に低下する気もする。残るのは技術だけ。発達してAIができて便利になって不幸になる。民主主義を放棄する歴史の新たな入口なのか?

まあ、こんなことを言っても仕方がない。まずは自分をこの環境に順応させなければならない?方法が解らないけどそれが今年の最初の仕事かもしれない。

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Posted on 2017/01/22 Sun. 16:49    TB: 0    CM: 0

正月雑感 新年再開号 

最近、ついFBで簡易に近況報告のようなことをする習慣がついてしまいました。
まあそれはそれで良いのですが、このブログを半年以上触らないでいたせいか、言いたいことがどんどん溜まってきていることに密かに気付いていました。
FBって言うのはひとつの癖ですね。何を発信したいのか考えると発信するものがどんどん無くなって、それがむしろ快感って言うような、、、
その点、このブログは自分の考えや感じていることを発信したいと思わないとなかなか発信できないようなところがあって、それが欠点でもあり利点でもある。まあSNSとしての根っこの部分(自己存在を知らせたい、同じ体温の人と同じ感覚を共有して安心していたい、自己弁護をしたい、認められたい、ひとりではない、、自慢したいなど)は同じなんだろうけど。

トランプ新大統領のこと、AIで人の仕事がなくなること、交通事故の死者が4000人を切ったのに自殺者はその5倍以上いること、シリアでのロシアとトルコの連携のこと、、、うちのバルザックが15歳になって様子が変わってきたこと、最近首が痛くて仕方がないけどマッサージでは治らないこと、近くに素晴らし(そうな)音楽ホールが建設中であること、、、冬には植物に水をやらない方が良いって言われたこと、、そして「僕のすべき仕事」ってなんだろうっていうことへの悩みなどなど、、、、、ああきりがない。

で、突然少し休みの日はこのブログをまた始めようかと思った次第です。年も明けたし。ならば「新年」という季語が使えるうちにと。まあ三日坊主なのでこの瞬間の感情でしょうけど。まあ他人にとってはどうでもいい話です。

この正月は穏やかな晴天が続きましたね。血圧が下がると少し気分が悪くなったりするようになった(歳のせい?)ので晴天の意味が、若い時に比べて少し違ってきているので余計に有難かった。

子供達がそれぞれ孫を連れて集まってくれて、賑やかに疲れる“有難い”三が日でした。歳をとってくると(なんだろうと思うけどそうではない気もする)、寂しさを癒したいという欲求の顕在化と、種の保存の達成感の確認と、一方的な無報酬愛に酔える心地よさなど、があるので「孫は可愛い」というステレオタイプの挨拶があるのですが、自分の可愛い感情をむやみに他人に表現するのは、故に醜い。まあそういう自己矛盾と言うか自己否定と言うか、僕が“あまのじゃく”なのでしょうが、まあ非日常的な感情を掌に包んだような正月でした。

そう言えば15歳になったバルザックが一段と老境に至ってきたようで、元来の“たおやかな”な性格が一段といぶし銀のようになってきまして、時の流れにゆったりと身を任せているような「大人(たいじん)」になってきました。

Balzac201701.jpg

時間があったら寝ています。
訳もわからずゆったりとした足取りで部屋を回ります。
食卓から落ちた食べ物にも気付きません。
焦点の合っていなさ風な目でじっと遠くを見つめています。
尻尾を振ってチヤフルに感情を表すことが少なくなりました。
孫を尊重しつつも、うるさがっています。

ああ、あと何日この子と過ごすことができるのだろう、、、無言で過ぎて行く抗いようのない時を感じます。

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Posted on 2017/01/07 Sat. 15:45    TB: 0    CM: 0

哲学的なバルザック? 

一昨日持ち帰った仕事を終え、昨日は昼に上京してきた娘婿の両親と会ったのち夜は友人と約束していた会食で蕎麦を食べ、あっという間にこの連休も特に何らかの成果も残さず慌ただしく過ぎようとしています。今日は連休の谷間の真空的一日。それで気になっていた植物のことから、何故か放置していた池田晶子の「41歳からの哲学」を手にとって読んでしまいました。

左はウンベラータという植物で、葉の形が実に美しく、のどかな昼下がりに楽観的で明るい空間を与えてくれるとても気にいっている一鉢。右は会社で死にかけていたのを持ち帰って何とか再生を願っていた蘭で、今年立派な花を付けてくれた一鉢(正確には2種類をひとつの鉢に入れています)。そして動物代表としてうちのバルザック君。もう早いもので14歳です。

ウンベラータ   蘭
IMG_1378.jpg

蘭は生命再生の成功例ですが、ウンベラータは葉が黄色になり明らかに様子がおかしい。育てるのが簡単だと言うので買ったのに。近くに住む“植物おたく”の息子に相談したら根腐れではないかと言うのでこれから鉢の交換をしようとしているところです。14歳になったバルザックは虚ろに空間を見て過ぎす時間が増えてきました。相変わらず愛くるしいこの子にも確実に老いが近づいてきています。

子供が育って親としての社会的役割が終わってしまうと、「仕事」をする理由として安易に説明できた「家族のため」というのも無くなってしまう。家族を最初から持っていない場合は常に”それを生きている”ので、こういう「潮目」はないのかも知れませんが、一旦家族を持ちその上で仕事をしてきた者としては、こういう連休には内省的なことを考えてしまうことが多い。俺は何をしているのか、と。

前もブログで池田晶子のことを書いたと思いますが、2007年に47歳の若さで亡くなった哲学者で、彼女の「14歳からの哲学」は子供向けの本の域を超えた名著でヒットしました。植物と命ということからまた今日また池田晶子を読みたくなって、本当に久しぶりですが、一度手にとって止めていた「41歳からの哲学」を読んでいました。

“物事を突き詰めて考えるのが好き”といういい方をすることがありますが、正確には”考えてもいないまま発言することが多い自分が厭”、というのが正しいのではないかと思っています。それは非常にやっかいで周りから嫌がられる性質です。上記の「社会的役割」などと言う言葉も、一種の逃げであり、だれも僕にそんなことは期待していない可能性が大きいわけです。

哲学というのは結局「死」について考えることです。死は究極の平等であり、死を避けられないというのは生物がどうしても受け入れるしかない事実です。でもこのウンベラータも蘭も死の事を考えません。もちろん動物であるバルザックも考えません。考えなくても死にます。

人間だけが死を恐怖として捉え、それ身構え、そして保険をかけ、医学を駆使して逃れようとする。でも死んだ人間と話はできないし、死が恐怖すべき怖いものなのかその証拠もないのになぜそうなのか、池田晶子はそう言います。彼女は死を恐怖していなかったようだし、自分を敢えて言えば地球ごと客観ししていたようなそんな無機質的冷淡さと言うか、鈍感さと言うか、孤高さというか、そんなものを持っていたように思います。小林秀雄が師であったと言うだけはある自己客観視力は半端ではないように思います。

羨望を覚えると言いたいのですが、自分はそうではなくて良かったと思っています。

人はそれぞれ違ったパーソナリティーを持っています。でも「現実」は大勢の人の観念によって作られていて、その「観念」の集合体を常識と言います。自分の観念というものをそれと切り離すことは容易ではないし、実際その切り離しに意味があるのか、から考えなければならない。

ウンベラータと蘭とバルザックには観念がなくて、ただただ僕が育てたいと言う自分勝手な欲の対象になっているだけなのです。でも、否、だから、はるかに彼らの方が幸せではないかと。少し暇であることは僕にはむいてないのかもしれないですね。こんなことを考えて幸せになる人間なんていないだろうから。。

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Posted on 2016/05/06 Fri. 16:31    TB: 0    CM: 0

本社の引っ越し 

やっと今日、連休らしい緩んだ一日を過ごしています。
実は先週末本社を新宿に引っ越しました。僕は出張中だったので、昨日が僕の初出社でした。
新宿ガーデンタワー    泉GT
(新オフィース:             (ありがとう、六本木1丁目)
4月1日完成の新築です)

旧オフィースがあった六本木一丁目と言う外資系金融っぽい、僕なんかの田舎育ちの人間にはもうひとつ生活感のない街に少し疲れていましたが、今度は最寄駅が高田馬場という、思いっきり昭和感覚の街です。オフィースは新しいのですが街の味わいは全く異なる真逆の世界です。
偶然どちらも29階になってしまいましたが景色がまったく違います。しばらくは戸惑うと思うけど少し時代を戻って行く感じです。
気取って言えばとてもオーガニックな街、逆に言えば時代に取り残されていた街。この2つは同じ意味でもありそうです。

振りかえってみればサラリーマンをやめてからのこの15年、本当に目まぐるしい変化だったと思います。本社の場所だけでも、丸の内から品川へ、品川から日本橋、日本橋から六本木、今回新宿に移ってきました。非常にグローバルな資本の影響を受けたり、不動産業と兼務したり、僕自身本当に慌ただしく過ぎた15年でした。

これからは少し落ち着いて、スローでかつドメスティックな、自分達らしさをしっかり考えた質の高いサービスを、そしてこれからの顧客ニーズにマッチしたサービスを追求していきたいと思います。自分らしさって難しいけど、答えは外にはないことに気付いています。

そう、会社の仕事がますますオーガニックな方向にいくんだろうなと思っています、人工知能にはできない仕事を目指します。
そんな仕事が本当にあるのか、と疑いながら。

今後ともよろしくお願いいたします。

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Posted on 2016/05/03 Tue. 15:47    TB: 0    CM: 0

新井貴浩2000安打に見る昭和の青年と広島の健全な劣等感 

カープで始めるブログはいかにも能天気で自分の弱さをさらけ出すようで嫌なのですが、その誘惑抗し難く失礼します。

新井2000本

そう、年俸2000万円の新井貴浩が2000安打を達成した神宮でのカープ勝利の話題です。一度は敵になりカープファンからブーイングを受けた彼が、また戻ってくるという節操のなさでしたが、このカープファンの拍手喝さいを見るにつけ、野球選手と言えどもはやりパーソナリティーの重要さと言う事をつくづく思った次第です。阪神から1億円の減俸を言い渡され、自由契約を申し出て古巣に復帰と報道されています。まあ帰ってくる方も方ですが、受け入れる方もなんと言うか、、、この世知辛い世の中、実に良い話だと今日は思った次第。

本人のキャラクターと広島カープの文化がマッチしているんだと思います。シンプルで純粋で「昭和の青年」のような人間と言うと誉めすぎでしょうが、とにかく単純な人間でなければ地道に青春を毎年続けられないだろうなあって思います。天才肌ではない謙虚さが時間をかけて作った記録というか、、、広島という、高望をしない「健全な劣等感」とその田舎臭さがやっぱり性にあっているんだろうと思います。

天才清原と比較して考えてしまいますが、とてもさわやかさで気持ちのよい「青年新井」の2000本達成でした。
25年振りの優勝頼みます!

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Posted on 2016/04/26 Tue. 23:38    TB: 0    CM: 0

認知的成熟・・・当事者と非当事者の境界線 

九州が大変なことになっていますね。熊本や周辺の知人に安否を確かめるメールやLINEを送りましたが、幸い何とか無事のようです。でも今回の地震は、少しずつ収束するという一般則が通用しないタイプのようで、不便は当たり前としても、先の読めない大きな不安を感じているようです。どんどん周辺に震源地が拡がっていて、またさらにより大きなものが襲ってくるという恐怖を感じているようでした。

活断層型の地震が場所を変えながら連続してまるでドミノ倒しのように発生している。列島の地下深くに大きな力のアンバランスが生じているのかもしれません。動いている地球の上で生活を営んでいることを改めて実感しています。
が、そう批評家のようなことを言っている場合ではないですね。何ができるんだろうか・・・

こう言う災害のときの対応にはいつも迷ってしまいます。心配で安否を確認したくなるのは当然なんですが、本当に知らなければ自分の生活に支障があるような関係と、実は心配していることを伝えること自体が目的になっていることは違うのではないかと。
当の本人はまず自分と家族の安全を守り、その後も不自由な条件の中でなんとか生き抜くことで精いっぱいなはずです。

その場に一緒にいて、同じような被害を共有している人でない限り、その場で苦労している人の気持ちや状況をそのまま理解することなどできないので、やり取りしていてもどうしても気持ちの食い違いが生じます。また多くは、心配していると言うこと以外に何もできない。ボランティアに行っても時期と場所によっては結局食料が必要でかえって少ないものをより奪ってしまい迷惑になる。

だから何もしなくても良いと言う事にはならないんだけど、遠くに居る人ができることって、結局ある程度状況が落ち着いてからでしかできないことがほとんど何だろうなあと。自分の安心と親愛の押し売りにならないような距離感は難しいなあと。

普通の人に出来る事って難しいなあと思います。また本当の身内でない人ってこういうときどういう存在なんだろうか、本当に役にたつ意味のあることって何なんだろうか、自分が被害者である時とそうでない時、その両方に共通する本音に目を向けてしまいます。

好き嫌いは単純な話だけど、善悪や正義は難しい。どんなことにも良い面と悪い面、役に立つ面と迷惑な面、人の為と言いながら実は自分の為にしていることって多い。自分の為にしていても人の役にも立つこともある。こういう事を感じながら考えたり行為できることを「認知的成熟」と言うらしい。

いずれにしても一日もはやく事態が終息に向かうことを祈ります。
やってしまってもすぐ認知的成熟度の低さに気付けるように修行して行きたいと思います。
またいつ自分が被害者になるかもしれないことを考えながら、そんなことを思った風の強い日曜日でした。




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Posted on 2016/04/17 Sun. 16:52    TB: 0    CM: 0

no rain, no rainbow  

まだ「鯉のぼり」まで間があるので”ぬか喜び”の可能性はいつものようにあり、そのことにも十分慣れてはおりますが、開幕して丁度各チームとの対戦が一巡した今日、広島カープが首位に並びました。特に今日の勝ち方は、先発の野村投手が7回までほぼパーフェクトに投げ、2点差という点差が生み出す良質な緊張感を維持してくれて、ジャクソンと守護神中崎が1回ずつ危なげなく押え、絵に描いたような「大人の勝ち方」でした。久しぶりに美しい試合ということで大いに満足の夜でした。しかも球場が、呉市といういかにも広島人しか知らないようなローカルな場所で、ここであの戦艦大和が建造されたということ以外になかなか話題に上らないような“渋い”ところだったので、なんか非常に玄人っぽい往年のプロ野球を味わえたという感じで喜びもひとしおでした。

勝利
(この写真は新聞から頂きました)

まあ、カープのことは僕の最大の弱点(笑)なんですが、なんでこんなことで幸福感や不幸せな気持ちになってしまうのだろうと、本当に不思議です。

今年はエースの前田健太がドジャースに行って、最初の先発試合で勝ち投手、かつ初ヒットがホームランというどう考えても出来過ぎなスタートを切ってくれました。カープファンとして、アメリカで広島カープのレベルの高さ(?)を証明してくれたようで、このことも本当にHappyな話題です。ドジャースと言えば、僕がサンフランシスコに居たとき、野茂がサンフランシスコ・ジャイアンツとの試合で初投球したのを見に行ったことを思い出します。

今日ちょっと話したかったことは、この“マエケン”が彼のブログのタイトルに “no rain, no rainbow” という言葉を使っていることです。これはなかなか深い言葉だと思っていたことを、今日のカープの勝ちゲームでちょっと思い出しました。

この言葉は、終わったばかりのNHKの「あさがきた」のヒロインモデルの広岡浅子がペンネームとして使っていたらしい「九転十起生」という言葉にも通じ、「あきらめない」ということでもありますが、その意味はともかく、英語のこの言葉は“雨上がりの虹”と言うとても美しい情景が浮かんで来ると同時に、レインという「R」の綺麗な響きが2度使われていて、まるで詩のようだなあと思っていました。思いようによって雨はネガティブにもポジティブにもなる。素敵な言葉です。

そう言えば古いJazzの名曲に“come rain or come shine”というのがあることをいま思い出しました。良い時も悪い時もあるということでしょうが、「成るようになれ」ということでもあります。

物事は「思い方ひとつ」。カープだけではなく今年はこの心境でまたいろいろチャレンジしつつ、それを楽しむ自分でなければと思った次第です。


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Posted on 2016/04/13 Wed. 00:18    TB: 0    CM: 0

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