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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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新年明けましておめでとうございます 〜「天皇の世紀」と新元号に思う〜 

新年明けましておめでとうございます。
2019年に入って初めてのブログになります。
昨年はいろいろ盛り沢山のイベントで落ち着かないことが多かったので、今年は少し“内的”な自分を充実させたいと思っています。と言ってまずは“フィジカルから”というアプローチをしたのが失敗(笑)で、インナーマッスルを鍛える体操のし過ぎで正月早々腰を痛めたり孫からうつった風邪などであまり良いスタートではありませんでした。自分ながら単純な思いつきに反省しきり。

今年は元号が変わりますね。天皇の生前退位というのはあまり経験できないことなのでつい考えてしまいます。昔「天皇機関説」というものを法学部の授業で習いましたが、明治の憲法下での天皇の統帥権のようなものと対峙して盛んに論じられたように記憶しています。「人権」と紐づけられて戦後の風潮の中で論じられていましたが、今から思えば現憲法でいうところの「象徴」の方がまだ「機関」より人間的であるように思います。会社でもワンマン社長のことを“天皇みたいだ”ということがありますが、「天皇」という言葉には、そういう意味で違和感を持ったものです。機関より象徴の方がオーガニックな感じがするけど、同時に象徴は抽象概念であり過ぎて何かから逃げているようにも感じますね。

少なくとも日本の「戦後文化」の下では、天皇も人であるということが強調され、メディアでもことさらその人間的な部分が取上げられてきましたが、それが過去への贖罪という以上に、人としての天皇陛下(あるいは皇室)への興味を持つ正当性(というよりそのことに対して何かしら嬉しさを醸し出す方が視聴率を稼げるという感覚?)に裏づけされたものであることは間違いのないところであろうと思います。そうすると結局は人格的な魅力とか立ち振る舞いから受ける“個性”から遊離して話をすることは意味を持たないと言うことになります。

いっとき盛んに論じられた生前退位の是非についても、この「天皇というもの」を日本という国家がどう「機能」として捉えるのかという事と不可分で、このように天皇がすでに”人間としての個性”という情報の中で捉えられるようになった時点でそういう無機質な語感のある「機能」を云々することにまた違和感を覚えたものです。特に海外に住んでいた時に昭和天皇と現天皇(もっと言えば明治天皇まで)をいずれも「エンペラー」と呼ばれる存在として説明しなければならなかったことに難渋したことを思い出します。少なくともあの大佛次郎の“「天皇の世紀」という言葉で語られる日本”にはもう二度とお目にかかれないと言う寂しさがあるのは僕だけでしょうか?

この話は難しいですね。ともあれ、新元号は何となく想像ができる範囲の名前になりそうな気がしますが、昭和・平成・??という“3つの時代を生きた”と言われる人がこんなにも多い長寿社会の一員になることに誇りを持つのか恥ずかしさを感じるのか、、、やや複雑な気持ちで新年を迎えました。内憂外患の多き2019年ですが香り高い良い年になれば良いですね。今年は昨年よりブログを更新するというやや惰性的ながら新たな決意をしておりますので、また皆さん宜しくお願い致します。

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Posted on 2019/01/07 Mon. 19:53    TB: 0    CM: 0

続トランプ大統領雑感 〜ノーベル賞・ゴーン元会長で考える日本の民度〜 

先日トランプ大統領のことを書きました。あれから2週間ほど経ちますが、またマティス国防長官を解任というニュースを聞き、彼があくまで「トランプ」であり続けていることにある意味ホッとするという不健全な気持ちを持つと同時に、ここのところの株の暴落などにみる世界経済の不安定さは、トランプを初めとする各国の自国閉鎖主義がその原因のひとつであると思うし、考えたくはないけれど先の2つの大戦前夜を連想してしまう年の瀬になってしまいました。

前回のブログで本庶先生のノーベル賞とゴーン元会長の今回の刑事事件がこのトランプ大統領のことと関係があると言いましたが、ちょっと今回はそのことを考えてみたいと思います。

まずのノーベル賞のことから。今までのノーベル賞の受賞者は圧倒的にアメリカ人で、多くは西洋先進国の人です。アジアでは日本がダントツのトップで、当然日本人の優秀さを誇っても良いと思いますが、これから先はどうだろうと考えてしまいます。その理由は、個人責任文化へのシフトが不十分なまま“短期での成果を求めることで無駄をなくそう”という考え方が進んでいると思うからです。日本人がなぜ優秀か、というのは日本の民度が高かったからで、それは日本の個人の評価というものが近視眼的ではなかったことと関係するのではないかと思っているからです。今の日本の方向性は外資系などにみる西洋文化の中で形成された評価制度のような考え方を学問や研究開発にも当てはめようという風潮が感じられます。

これは日本が貧しくなってきていて、「効率」の定義を昔のような尺で考えられなくなってきたからです。このことは経済的なことと関係がないとは言いませんが、実は経済力と国力を連動して考えること以外の日本固有の価値観・価値基準が衰退しているからではないかと。これは資本主義やグローバリズムへの適応ニーズがもたらす負の効果といって良いし、今必要なのはいわゆる「リベラルアーツ」を軽んじる風潮(価値観の貧困化)への警鐘です。

時間をかけて育むことでしかできないことは匠の世界から夫婦の愛情に至るまでこの世の中にたくさんあります。それは人がオーガニックにしか成長しないということだと思うからです。そういう価値観をもつことに今我慢が必要とされるようになってきて、その我慢ができるには経済的なゆとりが日本の社会からなくなってきてしまった。会社の経営、教育、研究開発、子育て、家庭、文化など枚挙に暇がありません。この問題はデータエコノミーやAIによる新たな水平線の中で人間の存在価値をどう考えるかと言うこととも表裏一体のテーマです。

トランプの「短期決戦型勝利の法則」の欠陥とこのことは根っこが一緒。世間が我慢する価値を文化として失ってきて、民主主義はポピュリズムという欠点を通じてそれに便乗する人物を指導者にする。大きな成果には時間と失敗は必要で、文明を画期的に進化させるような発見はその何千倍もの失敗や無駄があり、それを許容する文化が無くなってきたように思います。

もうひとつのこと、そう日産のゴーンさんのことです。これはノーベル賞で議論した話の裏返しで、日産を再生させた傑出した能力をもつ人物が落ちた墓穴の話とも言えるし、日本人(この場合特に社員)が寄ってたかって突出した異質な外国人に対して持っていた不満感を解決し溜飲を下げようとする意図が隠れている行為とも言えると思うのです。突出した強さや能力を持つリーダーを求めつつも同時に皆があまり差を持っていないことに居心地の良さを感じる日本的社会主義(平等主義)の矛盾です。

トランプの場合は、庶民の屈折したヒロイズム礼賛のエネルギーがその正当性の裏付けとなっていますが、ゴーンの場合はどこか用済みと判断した狡猾な集団意識を感じたりします。検察が起訴する背景の話で具体的に日産の現経営陣がどういう動きをしたかは知りませんが、日本人経営者ではゴーンのような人物はなか現れなかっただろうし、あの時点であんな成果をだせる人は他にいなかった。その代りにあのような疑わしい背任系の行為もしなかったし、訴追されるような事態にはならなかっただろう。

僕は随分海外との関わりの中で仕事をしてきましたが、やはりトランプ大統領とゴーンさんは米国人とヨルダン人(と言ってよいかは?ですが)であり、本庶先生は日本人だとつくづく思います。いずれも優秀で突出した能力を持っているので普通の人ではありませんが、能力の基盤とその表れが違う。大切なことは数字などの客観性・中立性のある尺度は、時間の幅をどう考えるかということが重要だし、時間によって成果が違うことは環境がどこまでそれを許容できるかという問題でしょう。厳密主義は大きな成果を得られないことは歴史が証明しているし、効率が良いとは非常に難しい注意を要する言葉だと思うわけです。

なんか居心地がよくない年末ですね。歴史はこの平成最後の年をどのように評価するのだろう。

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Posted on 2018/12/25 Tue. 17:37    TB: 0    CM: 0

喧嘩で勝つ方法 〜平成最後の年のトランプ大統領〜 

早いもので今年もあと半月くらいになってしまいました。しかも平成も今年が最後と考えると、時の経つ速さというより“歴史になっていく日々を過ごしている”と言うような感覚がどんどん強くなっていきます。最後の年だからこそ「平成」を考えるというテーマで書いてみます。

社長を退任して6ヶ月近くブログを更新していませんでしたが、僕にとって今年の最大の関心ごとは何と言ってもあのトランプ大統領です。戦争と喧嘩は先に攻撃した方が有利に進められ、常識を振りかざした方が負けます。つまり自分の怒りの感情に正直な方が多くの場合初動で勝つと思います。怒りは一番強いエネルギーを与えてくれる感情だと思いますが、それを抑制している間に攻撃されると、つまり格好をつけている方が負けるということです。国のトップにそういう人物が就任することもままあって、南米とかアフリカなどには今でもそういうトップはいるでしょう。だから、最大の関心ごとであるという理由は、あのアメリカという超大国の大統領にその種の人物が選ばれたということです。「パックスアメリカーナ」はとうの昔に終わっているとは言え、その意味では歴史的に大きな曲がり角のような特筆すべき現象、何かに駄目を押すようなことが今起こっていると言う感じがしています。

会社を経営していて、自分が如何に常識家でバランスを重んじるタイプかということを、ネガティブな意味で何度も思ったことがあります。もっと言えばサラリーマンタイプと言うか、組織の一員タイプというか、理性に価値があると思い過ぎていると言うか。まあこういうことは人間の「タチ」の問題なのでとやかく言っても仕方がないことながら、そうでないタイプの経営者を羨ましいと何度思ったことか。どこが羨ましいかと言うと、変な意味ではなく、悩みが少ないと思うからです。悩みは想像力から生まれます。想像力が大きい人の欠点は判断する材料が多くなると言うことです。経営は複雑な要素の中で判断することではありますが、先に行動する能力がある人の方が新しいことができると思うし、特にイノベーションというのは過去の積み上げではなく直感力を優先するタイプでなければできないと思うからです。まあ守りに強い人は攻撃に弱いという言い方になるのかもしれません。「バックキャスティング」という言葉がありますが、まあ演繹法的に物事を考える能力がなければ創造性に繋がりにくいと言ってもいいでしょう。

トランプでなければできない大胆でシンプルな行動をアメリカがしている。しかもトランプ個人のパーソナリティーそのものをそのエネルギー源にしているという行動をアメリカという国家がしているというところが凄いことです。オバマ元大統領はは理性とか愛とか理念と言う方向性を大切にし、教養の価値を重んじる「大人」でしたが、トランプはよく言えば映画の「ロッキー」のようなヒロイズムに憧れる人物、シンプルでパワフルで勇気溢れるわかりやすい人物、損得に正直で偽善のない人と言えるでしょう。

メンタルヘルスの世界では、自己把握力とか、起こっていることを客観視できる能力が高い方がストレス耐性が高いと言われます。最近レジリエンスとか首尾一貫感覚(SOC)などとも呼ばれる一連の能力のことです。しかし僕に言わせるとこのトランプタイプの人が一番ストレス耐性が高いのではないかと。攻撃型の人にストレスがないと言う訳ではないでしょうが、自分に対して複雑な感情を持たない分、それが「うつ」などにつながる可能性は低いような気がします。

彼の登場に象徴される“思考や行動の単純化と明確化”は(一種の無責任化を内在している訳ですが)今や世界の潮流となってきていて、Brexit やフランスの暴動などもこの流れの一つだと思うわけです。所得格差だなどの不満が大きいエネルギーになって臨界点に達してきたとも言えるけど、それを行動に移すのはこう言ったトランプタイプの行動パターンと無縁ではないと思う。

しかし日本人はそこまでエネルギーが高くないのか、行動の単純化をやはり侮蔑するほど教養が高いのかどうか分かりませんが、特に若者が行動を起こさなくなって久しい気がします。60年安保を最後にそういうことが社会現象にならなくなった。一方、災害ボランティアに手を上げる人が多い。日本人は優しいのか大人しいのか理性的なのか。国民性とまでは言わないが、グローバルな競争では今もって弱い。それは誇れることなのかも知れないが負け惜しみにしか聞こえないことも多い。ただし同時に大切なことは、戦争も喧嘩も長期戦になるとトランプ型が強い訳でもないことは歴史が証明しているということ。さらに言えば、本庶先生のノーベル賞とゴーン元日産社長の話とこのことは関係があります。そのことはまた次に考えてみようと思っています。

今年一番の寒さになってクリスマスを迎えることができると期待し、もう平成ですら終わると言うのに昭和への郷愁を感じている自分に気づきます。年齢のせいだけでしょうか?

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Posted on 2018/12/12 Wed. 18:42    TB: 0    CM: 0

self-drivenな社員とブータンの国民総幸福量(GNH) 

来週、中小企業の社長さんたちが集まるあるセミナーで話をすることになっていて、今日その打ち合わせをしてきました。それは、若者の離職はどうしたら食い止められるか、どうしたら社員を戦力化できるか、というような話です。会社や仕事に魅力がないから、と言えば簡単ですが、じゃあ魅力とは何なのか?
というようなことになってこのテーマは実に深い話になります。私はサラリーマン時代の最後の時期に海外で社長を少しやっていてそれも入れると20年以上経営をやっていることになりますが、結局一番難しいことは社員の生産性を上げることに尽きると思っています。人の能力は意欲や士気で測ることができる、と前回のブログで書きましたが、外資系の社長をやっているとき、self-drivenという言葉をよく聞いたことを思い出していました。これは文字通り自ら動くという意味で、実際には自分でモチベーションの高い状態をキープして組織の中でアクティブに動くような社員を指して使っていました。常に自分で考え、いろんな提案をしたり、業務改善をしたり、業績を上げたりできる人材です。要するに“指示待ち人間ではない”わけです。問題はどうしたら人は組織の中でそうなるか、ということです。

会社の中では、モチベーションを刺激するのは給与などの「外的報酬」などより、達成感とか、必要とされているという充実感とか、自分にしかできない仕事をしているというようなプライドなどの「内的報酬」が重要であると説明していますが、それはとても大切なことです。ただし、EAPの仕事をするようになってから、実は、これはその人が生まれ育った環境や、生まれつき持っているパーソナリティーなどが大きく影響するのではないかと考えるようになりました。そんなことを言い出すと、どうやってそういう人を選ぶのかということになり、人の採用の方に話が言ってしまいますが、やはり基礎的な素質は無視できないことは事実です。Empowermentという言葉があります。パワーを与えるということではなく、その人の持っている能力を最大に発揮させ、業績を上げたり、組織の成長に大きく貢献できるような人、というような意味で使っています。中小企業であれ、大企業であれ、その人がその場を自分の自己表現の場としてベストな場だと思えばself-drivenになると言えます。

最近「他罰的」とか「他責的」という言葉をよく聞きます。メンタルヘルスの世界でも、他人や周りのせいにするという姿勢は不平や不満を常に抱えていて、精神衛生上好ましくないと言いますが、人が生き生きと仕事をするときには全てを自分の責任にできるような環境肯定型の心境になっていると思います。
自分の中に全ての原因があるという考え方は多くの宗教で幸せになる方法として挙げています。別に宗教の話をしたいわけではありませんが、所詮、人いうのは個人であれ組織人であれ、幸せになる(幸せと感じる)方法、あるいは条件は同じ根っこを持っていると思う次第です。ブータンのGNHの話もself-drivenな社員の話も同じ人の話です。

人は気分で仕事をする。自分は幸せだと思うにはどういうことに気をつけたらいいのか、会社は社員をどう扱うとこういう社員が多くなるのか、、会社の総幸福量はどうやったら上がるのか?答えは難しいのですが、永遠のテーマですね。

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Posted on 2018/06/14 Thu. 01:20    TB: 0    CM: 0

「ヒト」ではなく「人」になった難しさ 

(前回のブログの続きです)

“人は能力ではなく意欲で仕事をする” の続きですが、能力というのは、“より有利に生きていける技術”というようなことでしょうか。教育や努力によって高めることができる力という感じがします。スキルのようなものも含まれるでしょうね。でも、人の力とか勢いというのは能力ではなく、気持ちとか生理的な力である、ということを言いたいのです。

「人間は知的動物」という言い方をしますが、これも非常に注意を要する言葉です。メンタルヘルスと言うのは、人の原点に回帰することにかなり近いという感じを持つに至っています。余裕があるとき「ヒト」は「人」を自覚しますが、余裕がなくなると「人」という自覚はなくなります。大震災や火事のような自然災害が突如襲ってきたとき、人は動物になります。「脳」を経由しない行動をとります。このことは知的動物という言葉の本質を語っていて、知的ではない動物もやはり僕たちは「人」と呼んでいるのではないかと思うのです。

意欲は感情であり、感情は生理であり、主観であり、余裕があるほどその理由や原因を探す動物なのかも知れない。今の日本は未来を複雑に考えられるほど豊かになり、未来をシンプルに考えられないほど貧しくなった。メンタルということはそういうことを考えることなのでしょう。

メンタルヘルスをビジネスとして考えることに戻ります。ヒューマニーズの仕事を格好良く言えば、社員を幸せにするお手伝いをすると言うことになります。それができれば会社は利益を挙げられます、という文脈です。
こういう視点で、我が社の役割を重要さで順番にすれば以下のようになると思います。
1. 気持ち(つまり意欲)が低くなった人をこれ以上低くしないようにすること
2. 意欲が元に戻るようにし、かつまた落ちないようにすること
3. 簡単には意欲が落ちない人にする、またはそれを可能にする職場環境にすること

この中で一番難しいのが、3の「意欲が落ちにくくすること」です。これが永遠の課題です。人はどういう条件を与えた前向きな気持ちになるのかさせるのか、しかもそれを会社という組織の中で実現する、そういうことの難しさです。

メンタルヘルスというようなものが医療のテーマになったり、ましてや人事コンサル的なテーマになるほど日本は豊かになったとも言えるし、豊かさの難しさをまさに今突きつけられているとも言えるのです。

お腹一杯食べて、何の悩みもなく、何の恐怖もなく、ただひたすら眠りに落ちることができる我が家の17歳の老犬、バルザックに学びます。

たぶん、このような背景で捉えるメンタルヘルスは、きっと「自分と向き合うこと」だったり、「自分を肯定したりそのまま受け入れる」ことだったりするのだと思っています。難しく言えば自己客観視ですか。実に逆説的に余裕がないが故にそれを余裕と感じる境地ではないかと。

シンプルな「幸せ感」は、身近で、そして本当に足元にあって、だから気づかない。まさに「青い鳥」ですね。それに気づくのが難しいほど情報が氾濫し、お利口にならなければならないという洗脳が横行している。そういう時代であるがゆえの現象なのでしょう。

こう文字にするとこのテーマがいかに難しいのか分かります。特にビジネスとして考えたとき今だに手探りで、シンプルに語れないもどかしさを感じます。

「ヒト」は簡単なのに「人」は難しい。自分は簡単なはずなのに考えることは自分を難しくする。ましてやそれをビジネスにすることはやはり難しい。

17年間走ってきましたが、経営者として“自分と向き合う”ことを学んだ17年間でした。そしてそれによって幾らか成長させてもらったような気がします。
それ自体が僕の、僕のための、メンタルヘルスだったように思います。

会社のことはやはり難しい。社長辞任関連のブログはこの2回でやめてまた次回から普通の自分のブログに戻ろうと思います。ヒューマニーズのお客様(企業とその社員の皆さま)と、長くこんな社長に付き合ってくれた社員に感謝します。ありがとうございました。

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Posted on 2018/06/04 Mon. 23:21    TB: 0    CM: 0

人は「能力」ではなく「意欲」で仕事をする 〜ヒューマニーズの社長を辞して〜 

5月末日付で(株)ヒューマニーズの代表取締役社長を退任し、本日付で会長となりました。創業以来17年近く代表を務めてきましたが、会長と言う半分名誉職のような立場になりましたので、少し実務を離れた立場で会社を見られると思っています。今日から何回かヒューマニーズのことを少し書いてみたいと思っています。

2001年に脱サラをしてロンドンに親会社のあるコンサルタント会社の日本法人の代表になったのがそもそもの始まりです。その子会社として従業員のモチベーションマネジメントのひとつとしてのメンタルヘルスに着目し、ビジネス化してきたのがヒューマニーズです。

メンタルヘルスというのは「人」の深いところと格闘することであり、まさに人の根幹に位置するような領域に踏み込む作業になります。我が社は会社の従業員を対象とする、いわゆるEAPをなりわいにしてきましたが、このサービスは、心の問題が会社の中の問題だけではなくその人のパーソナリティーやプライベートな領域とも不可分な問題であることを前提にしているため、職場や組織の話だけでは終わらない非常にデリケートで複雑なサービスになるわけです。

そこがいわゆる体の健康という伝統的な保健領域と異なるところであり、文明の発達した現代では身体の健康が占める課題は格段に縮小し、多くはメンタルと言われる、心の、つまり脳の、不可解な感情を含む広範囲でかつ医学的にもまだまだ未知のメカニズムを相手にするということは、それ自体残されたフロンティアのひとつと言っても過言でないと思ってきました。従って、今振り返って見ると、それをビジネスにすること自体とても難しい課題を終始抱えてきた、という印象を持っています。

メンタルヘルスビジネスは、一方で医療業界、一方で保険業界の一部のようになっています。人件費がもっとも大きなコストであることを考えるとその生産性と会社の利益は非常に密接に結びついていて、「健康経営」という言葉が今流行っている理由もそこにありますが、今まで私はそれらと一線を画した経営をしてきました。もちろん顧客企業の産業医や人事労務の方との連携はとても大切なサービスの根幹ではありますが、少なくとも経営という視点ではそれらから独立した、むしろ人事コンサルタントのような立ち位置を大切にしてきました。それはヒューマニーズが英国系人事コンサルタント会社の一部としてスタートしたからでもあるし、私自身がメンタルヘルスの専門家ではなかったことと関係しています。

人はとても厄介な「感情」という大きくて無視することができないエネルギーに支配されて生きています。自分の損得や好き嫌いは常に理性的・合理的な判断を蹴散らします。どんなに綺麗ごとを言ってもそういう感情の生理現象から逃れることはできません。そう、人は好きなことと得なことしかしないのです。
だから、不愉快さ、自信のなさ、面倒くささ、希望のなさなどネガティブな気持ちに支配されながらすることは何であれ力を発揮でないし、ましてや仕事など前向きにできるわけがありません。場合によっては歩く気力、食べる気力、話す気力もなくなる、そして生きる気力さえなくするような根源的な影響を与えるのです。とても苦痛であり必死に自分を「理性的」に奮い立たせなければ前に進むこともできませんが、そのエネルギーさえ失われてしまうということが起こります。

私は医者でもないしカウンセラーでもなく単なる経営者でしかありませんので、専門的にこの事を理解しているわけではありませんが、このビジネスを通して、人の意欲というものがどれだけ大きな存在か深く考えるようになりました。

“人は能力ではなく意欲で仕事をする”のです。  (次回に続く)


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Posted on 2018/06/01 Fri. 17:32    TB: 0    CM: 0

重力とウンベラータとバルザック 

長い連休が今日で終わりですね。前半は仕事と編曲、後半は食事に出かけたり孫4人が来たりして、それなりに「安全・安心」な休みでした。もう駄目だと思っていたウンベラータがこの連休中に生き返ったように新芽をつけて嬉しい限りでもあり、今日はカープが逆転サヨナラ負けで後味の悪い休みになったこと以外は、天気も穏やかで良い数日でした。植物の生命力にも脱帽。
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最近は夫婦ふたりに17歳になる老犬の3人(?)家族で、いたって平穏で安定した変化の少ない日々を過ごしていますが、いまやとても大切な家族の一員になったこの老犬のバルザックを見ていると“明日は我が身”と思うことも多く、いろんな勉強をさせてもらっているような気持ちになります。
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バルザック君の目は僕よりひどい白内障でほとんど光しか感じないし、名前を呼んでもまったく反応しないので耳もまったく聞こえない。嗅覚も、鼻の前5センチに餌を持って行ってもわからないくらいだから、犬としてはほぼ能力喪失と言ってよいでしょう。でも数年前に膀胱ポリープの手術をした以外病気という病気もせず、1日2回の餌は常に完食。少し前ドッグフードを食べなくなったことがあって、歯が弱っていると考えミキサーで粉状にして水を混ぜてペースト状にして与えると素晴らしい食欲が復活して完食。消化器系はかなり元気であることがわかります。寝ている以外は時計周りにぐるぐる回る行動を繰り返し排泄は場所を選ばないので認知機能に少し問題があるのかも知れませんが、相変わらずフレンドリーでとても穏やかです。毛を触ったら認識するので皮膚知覚は正常であることがわかります。

適度な運動ができて食事ができさえすれば、人のように将来を悲観することもなく、雑音も入らない闇に穏やかな静寂の世界を見出しているようで、あくせく希望だの絶望だの利益だの孤独だの、そんなことを考える人が如何にややこしい動物であるかに気づかせてくれます。もっとも何もしなくても餌をゲットできるので恵まれていることは間違いありませんが、平穏とは何かをつくづく考えてしまう訳です。生きることに目的など必要なのかと。

ひとつ新たな発見がありました。抱き上げると暴れます。理由をずっと考えていたのですが、思い至ったのは重力のことです。平衡感覚があるのに目も耳も鼻も効かないということは、闇と静寂の中で宙に抱き上げられとても不安になるのではないかということ。人間もそうですが地球の重力に多くのことが支配されているわけで、大気圏を突き破って宇宙に行くことや、宇宙空間で人が暮らして行けるのか大いに不安になるところです。進化の過程でもっとも強く制約を受けている条件は重力なのではないかと思った次第です。人間の生理や心のあり方まで大きく影響を与える要素であり、その重要性は全てに優越するのではないかと思うほどです。ウンベラータがこうやって命を繋いでくれるのも重力のお陰なのでしょう。

バルザックはあと何年生きてくれるかわかりませんが、抱き上げることを我慢して、その平和そのものの寝息に寄り添って行きたいと願って止みません。

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Posted on 2018/05/06 Sun. 23:39    TB: 0    CM: 0

明るくぼやけた景色 

本当に久しぶりのブログです。ちょっと身辺も落ち着いたのでPCの前に座ってみました。

2月に白内障の手術をしました。まだ年齢的には少し早いかと思いますが、右目が曇ってきて飛蚊症まであって仕事にも支障があるほどひどくなったので決断しました。世間で言われている通り簡単な手術で、1週間ぐらい洗顔洗髪ができない程度の不便さでしたが、問題はメガネの度合わせが難しいこと。多焦点レンズの人工水晶体もあるようですが、賛否両論あって主治医も反対するのでやめました。レンズはクリアーになってもピントを合わせる機能は回復していないから当然とは言え、メガネでの視力矯正がなければ明るいがピントの合っていない景色があるだけ。明るいことは有難いのですが実は飛蚊症もあって蚊は余計に鮮明に見えるから始末に悪い。さらに左目はまだ交換するのは勿体無いそうで、自分が親からもらった目のまま。持って生まれたものと人工のもののアンバランスもあるので話がややこしい。

医師も眼鏡店も“慣れるしかないですね〜”と言うのでそのまま我慢しながら生活しています。先日瀬戸内海の某無人島にお付き合いで上陸するイベントがあって、岩礁の間を歩いていたら足を踏み外して肩を打ってしまいました。パターのとき足元が歪んで見えるゴルフのグルーンのような状態でした。

老化はだれにでも訪れ、その訪れ方も様々だと思いますが、自分にもしっかりそれが訪れてきたことを自覚した事件でした。若いうちはいつまでも変わらないと無意識に思っているものだし、またそう思っていなければ仕事に攻撃的になれない。攻撃的になれなければ大した仕事はできない。まあ人並みに人類の必然にまた一歩足を踏み入れたということで、それを許容してこれからを過ごさなければなりませんね。必要なのは「脳」機能の適応なんでしょうね、きっと。

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Posted on 2018/04/12 Thu. 15:56    TB: 0    CM: 0

阿川佐和子著「強父論」を読んで 

昨年の夏に94歳で亡くなった阿川弘之のことを娘の阿川佐和子が描いた「強父論」が滅法面白かったです。彼女の文章の旨さもあるのでしょうが、暴君の父親を描きつつ、その父親に対して娘であり女である彼女が持っている“屈折した”愛情や敬愛の感情が、そこはかとなく鳴り響いているような本でした。読み進んでいるうちに、腹を抱えて笑いつつ不覚にも涙が出てしまう個所がいくつかあるのです。「男と女」の複雑で不可思議な関係が「父と娘」の関係を通してその深みを増して迫ってくる感じがあります。

強父論写真


たまたま今年は幸田露伴の生誕150年で、娘の幸田文、孫の青木玉、そしてひ孫の青木奈緒という女系の目を通して語る露伴の番組をNHKで見ましたが、女性の力を通して継承され残されていく戦前の言語教養とか身体文化の価値とどこか通じ合うものもあります。男性より女性の方が、そういう、特に身体文化に価値を見出し残す力があるような気がします。男のことは女性の方が解るのでしょうね。

シンプルであること、一貫しているということ、こだわるということ、自分にも他人にも嘘がつけないほど不器用であるということ。こんな男は現代の社会では生きてはいけないでしょう。存在してもその価値が評価されるどころか同情すらされないでしょうね。天然記念物なみの存在でかつDVの加害者扱いにされることでしょう。

前時代的で諸悪の根源のような「男」や「父」がついこの前までの日本に存在した証が展開されている本ですが、もう一度「男」や「父」を考え、自分の一見ヒューマンな考え方の偽善を思った次第です。

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Posted on 2017/07/09 Sun. 22:52    TB: 0    CM: 0

小林麻央さんにみる命と死のこと 

小林麻央さんが亡くなったニュース。
いろんなことを考えさせられました。

あれだけ連日ブログで体調や心の動きが発信された有名人の死というのはあまりなかったような気がします。
報道によると200万人以上のフォロワーがいたとか。言葉は適切ではないけれど、まるで実況中継されていたような闘病生活でした。その一挙手一投足に多くの人が一喜一憂し、一緒に祈っている、“彼女の日常の共有”を感じました。

皆の(「国民の」と言い換えても良いくらい大勢の)願いと祈りも虚しく残念な結果になってしまいましたが、多くの人に勇気と、また命について深く考える切っ掛けを改めて与えてくれたように思います。市川海老蔵さんの会見で感じたことですが、死を覚悟した先に、常に周りの人に”与える側”になり続けた人。菩薩のように慈悲の心を多くの人に届けたと言うか、とにかく残された家族に刻まれたとても格好いい「往き方」と言うか、そんな人だったように思います。

もうひとつ感じたことは、ひとりで死んでいって、その死を人に知られないような、いわゆる『孤独死』との対比です。人は所詮ひとりで死んでいく運命にありますが、周りに人が居て、ましてや多くの国民に心配されながら命を落とす麻央さんのようなケースと比べてみると、本当に今回、SNSの役割の凄さと言うか、そんなものも思いました。トランプと比較するのは不謹慎ですが、死まで実況してしまうような、少し怖さすら感じる現象をです。

死が身近になると言う事とは違いますが、ある種の劇場型の死と言いますか、、、死とプライバシーという問題につながるもう一つの問題のことも考えました。これからこういう、ある意味「シェアーされる死」という現象がテクノロジーの発達で抵抗なく繰り広げられる時代がそこまで来ているのかも知れませんね。

昔読んだ「南直哉(じきさい)」の本に、”死には3種類ある”という言葉があったのをまた思い出しました。もう死んだあとは自覚できない「自らの死」、そして毎日ニュースで繰り広げられる「他人の死」。この2つの死はその人の死生観や宗教心に影響は与えても、やはり人生の中で大きな意味を持つ死ではない。その人にとって一番重要なのは「近しい人の死」である、という意味の文章です。

麻央さんの死は、残された家族にとってはもちろん身近な人の死ですが、実は多くの人にとっても「他人の死」ではなかったかも知れない。他人と身近な人を近づける手段にSNSがなっていたとしたら、それは新たな死との距離感なのかも知れないと。

僕にとっても「他人の死」を超えた何かを残してくれました。心よりご冥福をお祈り致します。

カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2017/06/25 Sun. 18:27    TB: 0    CM: 0

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