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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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消火器と予防接種と年金の関係 

僕の住んでいる市では、40年前から「消火器」を無償で貸与している。40年前からですよ!このことを最近知って借りたのだけど、結構すごい発想だと思って感心した。まず、火事というのは一人の問題では済まないわけで、これぞ「公共の福祉、いや損害」に直結していることであり、またその場で消火するのがもっとも「経済効率」もよい。また住民の普段の防災への備え意識のようなものも、自然に形成されるということもあろう。高い消防車を何台も持つことと、無料で消火器を配ることのどちらがお金がかからないのであろうかと。しかも何年かごとに交換してくれるというメインテナンス付きだという。

これで連想するのは、人間ドックが無料にならないかと前から思っていたことである。これはこの火事の話によく似ていて、予防こそ保険対象にすべきで、その方がよほど国庫負担は少ないのではないかと思っているからである。予防医学にお金をかけた方が小さな火のうちに消せて効率がよいのと同じで、国にとってもその方が断然安上がりではないかと。

最近、社員にインフルエンザの予防接種を必ずするように言っている。でも無料ではない。これも同じである。年金なんかの問題もひょっとして同じではないかという気がする。源泉徴収する税金の一部を最初から年金に当てて個人預金か何かに強制的にさせる。使えない仕組みにしておいて、それを運用する。まあ、使えるようにしておいても良い。それを自分で使ったなら無くなっても文句は言わないであろう。なんか、物事って結構シンプルに考えた方がわかることがあるような気がします。行政の役割とかも、そう考えるとちょっと見方が変わってきませんか?

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Posted on 2007/12/17 Mon. 15:20    TB: 0    CM: 0

真剣になれる環境とは 

先日の野球のオリンピック最終予選のことだけど、久しぶりにスポーツで興奮したし、後に残る何とも言えない味があった。それでその「どうして?」をもう少し考えてみた。後のない一発勝負ということや「日の丸」がかかっている愛国心などがその背景にあるからではあるが、「イベントの味」を深くしているいくつかの理由に気づいた。

一番大きな部分は、大人のプロが高校野球の球児になっていたことである。本当に真剣だった。よく知られた野球を「職業」として“しょっちゅう”やっているプロが、である。その「ギャップ」が最大の理由であろう。しかもチームで勝つ集団でやるスポーツという要素があるからである。そこに、「自分だけの美学」を捨てさせてくれる(いや、その呪縛から逃れさせてくれる)力というか、へんなプライドなんか考えている余裕を「健全」になくさせてくれる環境の強制力が働いていたからである。早い話が、切羽詰まっていて、職業でやっていなくて、皆に迷惑をかけられなくて、国民のすごい期待を背負っていて・・・、そう、高校生が甲子園でやっているあのプレーそのものを大の大人のプロがやったからである。

人間、経験を積んで大人になると素直ではなくなるもんで、それが余裕にもなるし、より高い技術で成果も出せるもんだけど、明らかに失っていくものがある。どん詰まりまで追い詰められる「機会」もそのひとつかもしれない。成長というものに内在する本質的な弱点であろう。わが社はその意味ではどん詰まりの真剣勝負が出来る幸せをまだ享受できる。幸せなことである。

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Posted on 2007/12/14 Fri. 15:21    TB: 0    CM: 0

正しいことにも裏がある 

日本人の煙草離れが進んでいる。詳しい統計は知らないが、総数としては確実に減っているであろう。

アメリカではもっと前から煙草は不健康の代名詞で、特に本人がどうということより周りの人の健康を害することが権利侵害として認識されていたように思う。そういう考えから言えば喫煙者は一種の犯罪者でもあり、意志が弱くて知性の低い人種のように見られていたような気がする。

嫌煙運動は西海岸の方が強くて、サンフランシスコの会社の時など、法律で室内喫煙が禁止されていたので、吸うときは冬でも外に出た。吸うのは社長だった僕と社員の中でも一番下クラスの数人で、外に出て吸うという肩身の狭い思いを共有していたので随分と仲が良かったし、その場では大切な情報を交換していた。学歴の高い幹部の連中はまず吸わなかったので、彼らからは馬鹿にされていたように思う。確かに止められなかった僕は駄目な男であった。しかし、負け惜しみではないが(もちろん少しはそうでもあるが)どうもその嫌煙家の“天下をとった”みたいで誇らし気な“あっけらかんとした”論理には抵抗があった。清潔とか健康とかを、“肉体のみの健康”でよいように見ているような気がして、言ったら大変なことになるので言わなかったが、釈然としない気持ちを持っていたことも事実である。

その後、僕も禁煙した時期もあったが、最近また始めてしまった。ストレスのレベルが高くなったのが理由であるが、意志が弱いことを証明していることは確かである。しかし人類は煙草を太古の昔から嗜好品かつ贅沢品として楽しんでいた。芸術や文化とも強く結びついていた。また、戦争の時や刑務所の中など人間生存の一種極限状態ではタバコの功罪はその質を変えることも証明されている。どう言ったらよいのか・・・決して喫煙を擁護する気はないし、実際自分で止めていた時は相当の煙草嫌いであったので誤解して欲しくないのだが、たぶん、人生何でも表裏があるもので、そのどちらかだけが全て正しいと言い切られる場面に遭遇すると、いつも照れくさいと言うか、恥ずかしくなると言う事を言いたいような気がする。難しい問題だけど。

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Posted on 2007/12/11 Tue. 15:23    TB: 0    CM: 0

不作為の悪 

僕は別に社会派ではないし、そう呼ばれる連中のことが好きではない方であったが、最近正義感という厄介なものに心が拘束されることが多くなってきた。

この10月にIPCCが米元副代表のゴア氏とともにノーベル平和賞を受賞したが、これと言った工場もない日本の九州の離島でも光化学スモッグが発生しているそうである。これは中国の排煙が越境汚染という形で及んで来ているとのこと。IPCCは国連の組織であるが、もともと国連の役割が如何に弱体かは、そもそも自国の利益を最も大切にするはずの国家が、自分の利益に相反する国連の決議を受け容れる訳がないという理由からであり、そういう国家が集まって作る組織の機能の限界はアプリオリに存在していた訳である。

しかし、この環境の問題は国家間に今までにない規模で勝ち負けのない“平等”な損害を及ぼすようである。経済規模とか発達状況によって被害までの時間と、その大きさが違うだけである。まあ、核問題や関税障壁などの問題もその被害までの時間軸の違いこそあれ、本質的には同じであろうが、この環境の問題は、国家間の紛争解決などよりもっとシリアスに全地球規模の共通問題に直結している。皮肉にも、もっとも国連の役割が果たされるチャンスが巡ってきたとも言える。初めてその不作為は全員を滅ぼすことが証明されそうである。

アメリカも中国も「エゴ」の真実を真剣に見つめて、もっとエゴイストになったらどうかと思う。どっちがより損をするかって言っている場合ではないですね。なんか柄にもなくイライラするのは歳のせいでしょうか?

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Posted on 2007/12/07 Fri. 15:27    TB: 0    CM: 0

進歩ということ 

前も書いたが、僕は瀬戸内海に面した港町、尾道で生まれ、高校までそこで過ごした。
このたび、僕が家族とともに子供の頃通った尾道カトリック教会というのが老朽化で立て替えるそうである。あの鬼瓦と畳の教会が無くなるのは非常に残念である。先日、福岡出張の帰りに途中下車して少し立ち寄った。でも改築される教会の話を聞いて少々落胆した。地元の人にしてみれば、新しく近代的かつ都会的な教会にしたいのであろうが、東京にもありそうな普通のチャペルを小規模にしただけのような教会に見えた。それでも少しだけ建設費を寄付した。複雑な思いであったが、自分の中に存在している懐かしさに感謝するには、そういうことしかないように思えて。

よく思うことであるが、遠くからふるさとを想い期待することと、実際に現実に日々接する人が求めるものは大きく違う。実際の家並みなどを文化財として保護するような時も同じ問題がある。四谷の上智大学に聖イグナチオ教会という教会がある。ロマネスク様式の教会で、結婚式を挙げた思い出の教会でもあるが、何年か前、同じように建て替えられた。ゴシック様式のような威圧感がなく、柔らかく控えめで上質な静寂感を漂わせていて、大好きな教会だった。今年の5月にイタリアのアッシジに行ったとき、そこの聖フランシスコ教会がこの聖イグナチオ教会にそっくりなので驚いた。新しい教会は随分とデザインも“新しい”もので、どうも愛着を感じられない。残念で仕方が無い。尾道教会も同じようになるのである。難しい問題であるが、このことは、いったい誰が、どう当事者なのか、という問題だと思う。

結局は後世の人・子孫へ何を残すのか、そのために自分たちはどこまで犠牲を払うだけの価値を認めるのか、もっと言えば何を一番大切にしたいと思う価値感を持っているのかということなのであろう。でもそれを決めるのは現在そこで生きているその人なのである。他人には何も言う資格がない。だから言いたがるのであろうか。外国に行ってよく日本のことで思った「見る歴史と語る歴史」の問題がまた身近に起こっている。僕はその中でどう当事者でありうるのかと考えながら何も出来ないでいる今日この頃である。

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Posted on 2007/12/05 Wed. 15:29    TB: 0    CM: 0

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