大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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ヴェディオール・ウェイ ?“必要とされる”ということ?(後編)) 

僕は、同時にキャリアというのを仕事よりもっと広い概念で捉えたいと思っています。例えば家族なんかでも、「あなたなんか居ないほうが良い」と言われたら本当に悲しいと思います。だから、「自分が必要とされている」と感じることは、人間の最も根っこにある大切な生きる目標みたいなものかもしれないって考えるわけです。家族の中でも必要とされる手段という考え方をすると、夫婦に置き換えてもそうだけど、自分のあるべき姿というのが見えてくる。そしてそれは会社というコミュニティーのなかでも同じことではないかと。

さらに言えば、これは教育なんかにも通じていて、特に小さいとき親に抱きしめられ、大切にされていると感じる経験をした人は、それだけ人を愛したり、大切にするということが“生理的”に解るのではないかと思うのです。子供のいじめなんかは昔からあったけど、いじめ方が今のように陰湿ではなかったような気がします。そういう意味では経済的な豊かさなどとは関係なしに、心の豊かさも育った環境の中で大きく違ってくるのではないでしょうか。もっと言えば、人間は人を好きになる力と人を憎む力の両方を持っていて、実はこの「憎む」気持ちの方が大きくて強い。たぶん「エゴ(自分の利害を一番に考える)」の力が動物としての「種の保存本能」に近いところにあるようにDNAが設計されているからだと思います。でも人間は社会的な動物として進化してきてしまったので、そうすると単純に争うという力が最終的にもっとも効率よく種の保存に通じるのではないことを同時に学習してきました。平和という“他人と仲良くする”ことの方が自己防御につながり易いと考えるに至ったからです。どっちも結局“自分が一番”なんだけど、その手段が違うのです。

ちょっと脱線したけど、要するに人に必要とされると感じられることは、人が育つ過程で、人類が学習した「共存するメリット」を理解する能力に関係していて、そういうことと戦争とか平和とかは一緒のことで、これをキャリアという分野に置き換えると、「他人に必要とされる手段」を持っていることがより豊かで幸せな「キャリア人生」を長く享受することに繋がるという考え方です。そして、それはそのまま職業観にも繋がってくると思うわけです。その個人の方が書かれた内容と、このことは少し違うけど、その方は「人の幸せということを考えるとき、共通するものがある」というような意味で書かれていたと思います。まぁ、日々の各論はそうそう綺麗には行きませんが、そういう「志(ココロザシ)」でも持っていなければ本当に自分がどこに居るのか、わからなくなってしまうのではないかと思うのです。社員にもいつも言うのですが、毎日の仕事とはなかなか関係して考えられないようですね。実際、僕もそうですから(笑)


★2007年の更新は本日が最後です。皆さん、また新年にお会いしましょう。
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Posted on 2007/12/28 Fri. 15:15    TB: 0    CM: 0

ヴェディオール・ウェイ ?“必要とされる”ということ?(前編)) 

この前ある個人の方のブログで、わが社の「ヴェディオール・ウェイ」というのが紹介されているのを発見しました。(ちょっと嬉しかったです。)これは、わが社のホームページに書いてある、言ってみればわが社の企業理念のようなものなんだけど、創業するときにいろいろ考えて僕が作ったものです。

「人材ビジネス」は人の“キャリア”を扱う仕事なので、そのキャリアというものをどう捉えて事業展開すべきなのか、社員は何を指針として仕事をしたらよいのか、そんなことを考えて作りました。キャリアは周りの人に自分が必要とされるための手段であり、自分の一生を通して必要とされ続けることができるためにはどんなキャリアを積んで行ったらよいのか・・・そういうことを考えながら仕事をしようじゃあないか、というような会社の方向性にもなっています。

よく、自分が何をしたいのか解らないとか、何に向いているのか解らない、というようなことを言う人がいます。今の若い人には相当います。でもキャリアというのは自分で選んでいけるものではないんじゃないかと思います。自分で選んでいるようでも結局周りの人、会社や上司に選んでもらっているのではないかと。目の前に与えられた課題とかをとにかくあまり余計なことを考えずに思いっきりやってみる。そうすると結果として何かがアップする。その連続する足跡が、振返って見ると「その人のキャリア」になっている。「過去に道が出来る」というわけです。

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Posted on 2007/12/27 Thu. 15:16    TB: 0    CM: 0

車の性能と法定速度 

先日の日曜日、音楽の練習に行こうと高速を走っていたら、後ろに白バイがいた。僕の車は、いわゆるスポーツタイプで、見るからにスピードが出そうではある。それでいつも気をつけているんだけど、白バイがはっきり見える以上、もう根競べの様相を呈してしまい、結構神経戦で疲れてしまった。

いつも思うんだけど、なぜ自動車が法定速度以上のスピードが出るように作ってあるのかと。レーシングカーならわかる。サーキットではその機能を遺憾なく発揮でき、一般の道路ではその“スピードが出る”という性能を使わなければよいのだから、それは自動車として健全な存在である。ボクサーが試合以外の時に人を殴ったら凶器を使ったのと同じで一般の人以上に罰せられる。それとよく似ている。しかし普通の自動車はどうなのかと。

例えば日本のどこかの道路で130キロとか160キロとかのスピードを許されるところがあるだろうか?それを使うと絶対に違法となる性能を備える自動車というものの不思議さを皆さんはどう思うだろうか?

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Posted on 2007/12/25 Tue. 15:17    TB: 0    CM: 0

犯罪者の人権 

佐世保の銃乱射の事件で日本もアメリカのようになってきたと改めて思った。昔、建設会社にいたとき刑務所の建物を建てたことがある。マグワイアー刑務所といって、カリフォルニア州サンノセの近くの施設だったけど、いろんなことに驚いたことを思い出す。

それはFPI事業のひとつで民間が刑務所を「経営」するプロジェクトだった。日本も刑務所の運営の一部を民間に出したようであるが、そこでは丸々刑務所全部を民間が運営するとのことだった。今、日本もそうだと思うが、当時からアメリカは刑務所の収容能力が圧倒的に不足していて、社会的に大きな問題だった。

まず驚いたのはその施設の立派さ。とにかく地元では「ヒルトンホテル」と皮肉って呼ばれていたくらいで、見たところとても刑務所ではない。まあ正式にはCorrectional Facility(更生施設)と呼ばれるもので極悪犯罪者用ではなかったが、刑務所には違いない。鉄筋の数や壁の厚み、セキュリティーシステムの完備さなどは、さすがに刑務所と思わせるものだったが、例えばインテリアの色彩やデザイン、屋内のレクリエーション施設の充実振り、医療等のサービスの徹底振りなどは驚嘆に値する。電話は国内どこにかけても無料、レストランのような食堂にバスケットボールのコート。もちろん「堀の外」にいるような自由があるわけではないが、人によっては外に出たくなくなるのではないかと思ったものだ。

当時、路上にはたくさんのホームレスがいた。空き缶を持って道路に座って物乞いしていた。罪を犯した者の方が明らかに生存を保証されていた。結局のところ、「自由」とか「フェア」というのは社会の中で一体何なのか、随分考えさせられたものである。

佐世保の事件の動機は、本人が死んだのでなかなか解明されないであろう。しかしどんな原因があったにしろ、少なくとも常識的なその解決方法から相当飛躍した行為に及んでしまったその「心のあり方」に問題があったことは確かであろう。生きていても心神耗弱とかで罪が軽くなった可能性もある。どういう人をどう守り、どういう人にどう刑罰を与えるのが正しいのか・・・こういう犯罪のニュースに触れる度にあのマグワイアー刑務所で感じた「犯罪者の人権」というあの違和感を思い出す。

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Posted on 2007/12/21 Fri. 15:18    TB: 0    CM: 0

音楽と年齢・若いということ 

僕がサンフランシスコに居た頃は、バークレーにKeystone Korner Yoshi’s という日本レストラン付属のJazz Live House があった(現在このYoshi’sというのは単にKeystone Kornerに名前を変え、場所もベイブリッジを渡ってすぐのショッピング・モールの中に入っているようであるが、当時は一戸建てでなかなか味のあるライブハウスだった)。

独り身だったこともあり、ほぼ毎週聞きに行っていたが、当時好きだったピアニストのひとりにゴンザロ・ルバルカバという人がいた。先月、青山のブルーノートに出るというので行った。ピアノトリオではなくサックスとトランペットが一緒だったこともあると思うが、残念ながら、あの当時の汗がピアノに落ちるような情熱的でスリリングな演奏には触れられなかった。1963年生まれっていうから当時まだ20代。あれから10年以上経っているのだからそりゃ違って当然なんだけど、「成熟さ」という点に期待していたがその点でもちょっぴり不満が残った。

自分が若かった頃に出会った「音」と、今聴く「音」は当然違う。演奏する方も同じだけ歳をとっている訳だから同じように演奏も違う。歳というより経験とか体力などが全然違う。ゴンザロを聴きながらそんなことを考えてしまった。たまたま今回の演奏にそんなことを感じただけで、違う日に行けばもっと感動したかもしれない。

でも他のPlayerでもこれと同じような経験は何度もした。普通経験を積むと「質」も高くなっていくと考えられているけど、必ずしもそうではないのかもしれないという、どこか本質的な問題が絡んでいるような気がする。そしてこれは芸術なんかの世界だけに当てはまることでもないような気もする。

経験が少ないほうが純粋に無知の正直さとか、それゆえの真剣さがそのまま露出する。隠す知恵もないかもしれない。だからもし才能があれば、それが生のまま外に出る。逆に経験を積んでくると、「調整」ができる余裕も出来てくるし、多くのものから場所とかそのオケージョンの中で出すものを「選択」できる能力も身につくであろう。思うのは、人間何かを得ると何かを捨ててしまうのではないかということ。なんか「総量」というのは一定で、若いときの財産を減らす代わりに、より技術的に高いことができる“可能性”を持つことができる。でもそれを生かしていない「大人」も大勢いるのではないか。失ったままなのにそれで良しとする大人が。

そう思うと自分の今のテンションとか仕事の質とか、それが若いときに持っていたものに比べてどうなのか。ちょっと飛躍したけど、彼のピアノを聴きながらそんなことを考えてしまった。でもそれでも好きなピアニストではあるんだけど・・・

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Posted on 2007/12/19 Wed. 15:19    TB: 0    CM: 0

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