製作か創作か(後編)
今は(何回も書いたと思うけど)2つの音楽のグループに属していて、そのために編曲している。創作となるとこれがなかなか大変。何せ譜面をコピー・ペーストするのは機械がやってくれるので、気に入らない部分はすぐ消せるし、また使うときには呼び出せる。そうなると不思議なことに、譜面というかオタマジャクシ自体にはあまり愛情が持てない。作った音にしか愛着が持てなくなる。重なり方とかメロディーが気に入らないと先に進まない。自分の作業の質が問われる訳である。これが結構きつい。
大体最初は、白いキャンバスに絵を描くのと一緒で、何を書いても自分にとっては新鮮。ところが作業が進んでくると、結構技術的なレベル(創造より音の整合性とか)でつまずいてしまって、それに加えて新鮮味もなくなってきて(自分がいかに飽きっぽいかが良くわかる時でもある)、本当に陳腐なものにだんだんなって行く。一気に作れるほどの時間がないということもあるけど、何日にも分けてやっているとそもそも何を創りたかったのかもわからなくなってしまう。“自分がいかに才能のない凡人か”を突きつけられる瞬間が常に待っている感じ。それでも“一応”の完成をみたときはいつもうれしい。実際にみんなで演奏したときにまたショックを受けることになるのだけども。
まあそう言いながら続けられているのは、ある意味幸せではある。脳の違う部分を使っているのもリフレッシュにつながる。
文句もあまり言わず演奏してくれる友がいる幸せも味わえる趣味である。
大体最初は、白いキャンバスに絵を描くのと一緒で、何を書いても自分にとっては新鮮。ところが作業が進んでくると、結構技術的なレベル(創造より音の整合性とか)でつまずいてしまって、それに加えて新鮮味もなくなってきて(自分がいかに飽きっぽいかが良くわかる時でもある)、本当に陳腐なものにだんだんなって行く。一気に作れるほどの時間がないということもあるけど、何日にも分けてやっているとそもそも何を創りたかったのかもわからなくなってしまう。“自分がいかに才能のない凡人か”を突きつけられる瞬間が常に待っている感じ。それでも“一応”の完成をみたときはいつもうれしい。実際にみんなで演奏したときにまたショックを受けることになるのだけども。
まあそう言いながら続けられているのは、ある意味幸せではある。脳の違う部分を使っているのもリフレッシュにつながる。
文句もあまり言わず演奏してくれる友がいる幸せも味わえる趣味である。
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