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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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気づかないことの功罪-アメリカ大統領選挙をみて 

米国の民主党の大統領候補はオバマ氏となった。歴史に残る長期戦であった。

今は共和党に対抗できるような一枚岩になろうと、手を組んでキャンペーンを始めたようである。政治というのは結局“権力への意思”をストレートに表現してよい職業(これを職業というなら、なかなかそういう職業はない)であるから、利害が変われば有利と思う論理は何でもOKであり、それがコロコロ変わってもよいのであろう。あれだけ、あらを探して中傷していた相手を“褒め称えあう”のである。“君子豹変す”である。

しかし選挙民は、そうは思っていない。その一貫性のなさに鈍感である。そのギャップがまた、民主主義における選挙の本質である。選挙民は政治家ではないから当たり前で、政治家は選挙民でないから、その違いとの戦いが職業の本質なのであろう。でも “おかしい”(喜劇という意味での)と感じてしまう。頭ではわかっていても“おかしい”と感じる。それが“認められた”(あるいは“皆が承知している”)「うそ」というところがおかしいのである。

人間というのは面白いと思う。二重人格であり、矛盾に気づかない能力を持っている。そのことがまたおかしい。

政治家とか選挙では、それが透明感を増して見えてしまうが、本当は日々に生活の中に当たり前に存在していることなのである。例えば「弱者の権利」と「強者の権利」はどっちも「権利」と表現することはあっても、「弱者」だけは「弱者の義務」と表現することはない。あるのは「強者の義務」だけである。「弱者の義務」というのは聞いたことがない。義務のない権利というのは存在しないのにである。立場が代われば同じ人がまた、まったく反対の立場をとる。それは権利の方が義務より単純な意味で、得をするからである。義務を果たさないことで損をするという感覚に、気づかないフリが出来るからである。

ボランティアなんかも同じような感じがする。ボランティアをした人が感謝されることはあっても、ボランティアがそれをしてあげた人に感謝するという表現は聞かない。本当はしてより気分が良いのは、ボランティアをした人の方である可能性が大きいのにである。アメリカのボランティアと寄付行為を見ていると、すごくそんな気がする。

選挙というのは面白い。たぶん人間が皆持っている一種の弱さを正当化する、大きなイベントだからであろう。

カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2008/07/16 Wed. 10:44    TB: 0    CM: 0

クラシックは即興音楽だった 

この前の週末、小曽根真と日本フィルハーモニーの「ラプソディー・イン・ブルー」を聴きに言った。

ガーシュインだけなら、“クラシックの顔をしたジャズ”なんだけど、モーツアルトのピアノ四重奏もやったので、十分クラシックの香りがした。やはり小曽根はたいしたもんである。

僕にとってどこが“たいしたもん”か、というと、2つのことが挙げられる。1つは、クラシックの左手の動きはジャズのようにコードを抑えることがないので、右手とほぼ同じ動きをする。それにチャレンジして、ものにしていること。そしてもう1つは、アドリブが一切なく(カデンツアという形でのアドリブはあるし、バッハなんかもそういう要素をもともと持っているんだけど、世に言う近代のクラシックは皆、譜面に従って間違いなく同じ音符を奏でることが、基本的に義務付けられている)、曲を譜面に沿って正確に弾くということにチャレンジして、それを十分ものにしていること。

モーツアルトの第三楽章は、しっかりジャズ風のシンコペーションが自然に出ていて(出てしまって?)チェロの人なんかニヤニヤしながら合わせていた。なんていうか、“音楽が好きなら、クラシックだってそれ特有の楽しさがある”ことを証明してくれたパフォーマンスだったことが一番であろう。そういうことをたぶん本人も本当に意図し、そして聴衆に感じさせてくれたこと、が感動した理由だと思う。

昔、バッハをジャズでやって有名になったピアニスト(オイゲンキケロとかジャックリューシェ)などもいたが、全然違う味がする。「生」で聞いてみて、はじめて判るものもあると思うが、彼の姿勢は全然そういう「スキル」の世界では語れない領域のことを演じていたように思う。

モーツアルトなんかも、本来は即興演奏が大得意であったわけで、この場合もジャズということで括るのではなく、「即興の楽しみ」ということで理解すれば、音楽家として自然なことなんであろう。でもクラシックの演奏家では、なかなかそんな人を見たことがない。そういう意味では、彼がジャズで培った「即興」の部分をクラシックでやっただけ、という見方の方が当っているのかもしれない。

とにかく楽しかったし、音楽は楽しいものであるということを改めて正面から自然に、かつ肉体的に感じさせてくれたコンサートであった。クラシック的雰囲気に慣れた聴衆が、日本ではなかなか見せないスタンディング・オヴェーションで演奏を称えたあの雰囲気を作り出す力は、そういうことなのではないか、と。かれのビッグバンドは、できるだけ聞きに行くようにしているけど、今度はクラシックも聞きに行かなければならないと思った。

とにかく、日本に今までいなかった新しいタイプのミュージシャンが登場したことだけは間違いない。

カテゴリ: プライベートブログ

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Posted on 2008/07/14 Mon. 10:45    TB: 0    CM: 0

自分のことが一番わからない 

僕は多くの欠陥を持っているが、その中でも「方向音痴」というのがある。反対の電車に乗ったり、反対方向に“自信を持って”歩き始めることが結構ある。
また“おっちょこちょい”でもある。今までで一番自分でも笑ったのは、左右違う靴を履いて出かけたことである。しかも電車を降りて、その目的地に行って、そこのトイレで気づいた。

我ながらどうしてこういうことが起こるのかわからない。妙に細かく準備することがある一方、どうやってここまで来たのかわからないような、危うい自分が居る。
“自分のことが一番わからない”というのは絶対本当である。だからたぶん人生そのものに興味が尽きないのではないかと思う。

社員に「スキル」の話をよくするが、自分の癖とか得意不得意というのは、結局根本的には修正不能なものと思っている。生来のものか、育った過程で形成されたものかはわからないが、皆それぞれそういうものを持っている。多少の修正は可能であろうが、結局は、どうしようもないものと思っている。自分で最低でもその傾向は知っておいた方がよいが、コントロールできないことの方が多い。
そう考えると、自分の癖というものが、できれば社会生活上致命的な欠陥であってほしくない、と思うしかないのであろう。

カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2008/07/11 Fri. 11:10    TB: 0    CM: 0

サミットってなんか不思議な集まりだと思いません?(後編) 

また、メンバーが増えると各国の利害の衝突(というかその距離)が増え、ますます“玉虫色”の宣言が出されることになる可能性も大きくなる。その結果、条約のような拘束力が、“ある程度”のベースになったとしても、結局“離脱”したり“批准しなかったり”して、最終的には“結局あれは何だったんだ”ということになる例も多い。

昔、国際法というのを勉強した。その時理解したことは、国のエゴの存在と強制力がない国際秩序というものは、最終的にその解決を戦争に訴える国が出ても仕方がない、ということであった。
現在では、食料や石油やいろんなものが武器になるので戦争の形も変わった。しかし、変わったかもしれないが、その本質は変わっていない。
でも、集まらないより集まる方がいいか。討議するに越したことはないし、地球の温暖化というような地球規模の問題は、“自分だけ無関係”といえる国はないしね。

さあ、今年のサミットはどういう「成果」があって、その合意が“いつまで続くのか”注意してみようと思う。

カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2008/07/09 Wed. 11:12    TB: 0    CM: 0

サミットってなんか不思議な集まりだと思いません?(前編) 

洞爺湖サミットが始まった。
このサミットというのはなかなか面白い性格をもっている。国連とも関係ないし、各地域から選ばれた代表選手でもない。国連もそうではあるが、決定に関する最終的な強制力もない。(国連は拒否権があるので「従わない権利」が確立していると言う意味ではもっと問題があるかもしれない。)サミット(頂上)いう名前もちょっと上目線で奢りを感じる。
経済や政治で影響力の大きい国の代表が、相互に申し合わせて世界のことを話し合い、いろいろ約束ごとを決める(決まらないことの方が多いが)という意味では生徒会みたいなものかもしれない。だた、学校の場合は校則というのがあり、PTAなどの話し合いはあるとしても最終的には「決定への強制力」があるので、それとも違う。
まあ、任意に大きな国が集まって、その団結力で世界の問題を解決し、その影響力で“なるべく”実効性を持たそうとする会ということになるのであろう。

しかし面白いのは、毎年参加国が増えているということ。
逆に参加しなくなった国はない。増える理由は、いろんな意味で影響力を持つ国が増えていると考えられているからで、“実効性”を増そうと考えると必要なことなのであろう。でもメンバーが減らないということは、選手交代ではないわけで、どんどん増えて行くと国連の常任とか非常任理事国の集まりとどう違うのであろう、と考えたりもする。

カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2008/07/08 Tue. 11:15    TB: 0    CM: 0

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