大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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WBCと栗原 

ついこの前なのに、随分時間がたってしまったように感じますね。

昨夜はサッカーのバーレン戦もあったし、事件だのイベントだの

毎日のように起こっているからだろう。でもいずれにしても人間

終わったことには結構冷たいというか、忘れるのが早い動物

なんだろうと思う。そうしなければ新たなことに取り組めない。


しかし今回のWBCは、(前回もだけど)ほとんど韓国と2国で

争っているようなもので、キューバとかも見かけは弱くなって

いたみたいに見えてしまう。実際そういう差がでてきてしまって

いるのかもしれない。日本や韓国の方が、野球というゲームへ

の姿勢とか、チームとして勝利する戦術(メンバーの気持ちの

問題も含め)などがより緻密でかつ真剣に練り上げられている

ように感じた。「野球はアメリカが発祥の地」とか「大リーガー

で活躍し、世界にデビューしたい」というのは伝統的に刷り込まれ

たイメージで、実際はどうなんだろう。


でも昔サンフランシスコにいたころのアメリカでの野球文化とか、

人の熱狂の仕方には、歴史を経て浸透した、肩に力の入ってい

ない、いわゆる”板についた”庶民性を感じ、うらやましく思った

ものだ。野茂の初登板と第1球を興奮してみたことを思い出す。


ところで、我が広島カープの栗原君。村田の怪我で急きょ太平洋

を渡ったけど、確か2回の打席にいずれも凡退した。時差に弱いと

(僕がそうだけど)あんなに短時間で、しかも天下分け目のヒノキ舞台

にいきなり出されて、そうそう活躍できるもんじゃあないとは思って

同情した。彼のキャラ大好きなんだけど、さすがにバツが悪かった

かも。その後報道されてないんで(マイナーなんでされないか)

情報がない分だけ気になっています。

彼もメダルってもらえたんだろうか?そうすると余計彼の気持ちが

気になってしまいますね。



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Posted on 2009/03/29 Sun. 10:08    TB: 0    CM: 0

紅茶と文化 

コーヒーとたばこに妙な相関関係がある。酒とたばこにも相関関係が

はあるのと同じである。どんな本を読んでも「たばこは害」という。

近代的医学の”成果”で導き出せる”早く死なない”ための方法としては、

ほぼ確立された定説なのであろう。


今日ある会にキャンセルが出たからと言うので「紅茶の楽しみ方」という

セミナーに参加してきた。ロイヤル・コペンハーゲンが協力してくれた

セミナーだった。緑茶からプーアール茶までの発酵(簡単に言えば

酸化のことであるが、微生物の活性化が増えるほど発酵という言葉に

合致する。)の度合が異なることで同じお茶の木から様々な茶が

できるわけである。国によって好みが違うのか、じゃあなぜそうなのか。


紅茶は”単なる”飲み物であり、結局は好き嫌いの対象である。

今、また意志弱く(と言い切るには少々語りたいものがあるにはあるが)

再開したたばこであるが、止めていた期間は紅茶は好きな飲み物で

あった。もちろんたばこがあまり欲しくならないということが最大の理由

であったが、もうひとつ紅茶の文化は何となくコーヒーの文化より深い

と思っていたこともある。コーヒーは生理的に今でも大好きであるが、

紅茶よりその味自体主張が大きい。文化というのは淡い思想を長く続け

られて生き残っているものではないか、という気がしていて、紅茶には

潜在的に惹かれるものを僕の中ではたぶん”潜在的”に持っていたので

あろう。


紅茶はその主張が小さい。故にいろんなものとの相性がよい。相性が

よいという事は”親和性”が高いということで、”親和性”が高いことは、

排他性が少ないということである。つまり(人間でもそうであるが)長生き

をし易いということで、長生きをする物質(生物もその一つであるが)は

文化的に深まりやすい。要するに紅茶にはコーヒーよりも”耳を傾けて

心地よいかすかな存在意義”があるのである。


先日マレーシアに行ったが、カメロンハイランドという熱帯の中にイギリス

人が苦労(もちろん富があったからできたわけではあるが)をして探し

当てた標高1000m以上のジャングルの中に見つけた盆地がある。

夜には暖炉が欲しくなる”知的空間”を発見したのであるが、そこに

大規模な紅茶のプランテーションがある。洗練という言葉を使うには

少々照れを感じるが、プリティブという誉め方をするなら照れを感じない

おいしさがある紅茶ができる。


発酵の順番から言えば、緑茶、白茶、黄茶、紅茶、黒茶だそうで、

緑茶はすぐ熱に通すので発酵がすぐ止まるのだそうだ。紅茶は

発酵度が80%?90%で、結構酸化を進ませているお茶なんだそうだ。

ハイティーというイギリスの文化は夕食が8時という遅いために、

その空腹を満たすために発明(?)された習慣なんだとか。

ではなぜ夕食を早めなかったのかという疑問が残るが, ともかく

そのお蔭(?)で素晴らしい紅茶文化が生まれたことになる。


でも結局、緑茶が生んだ日本の茶室文化に代表される緑茶文化と

紅茶があったから生まれたハイティーに代表されるイギリスの紅茶文化

がなぜあんなに遠く離れた場所で起こったのかは分らなかった。

中国発祥のお茶という嗜好品を極めるその姿勢を持ちえた社会と、

それを媒介に使って社会的な営みでありかつ生き方のスタイルである

文化が醸成された、日本とイギリスに非常に興味を持った。

同時になぜ日本は発酵を拒否し、イギリスは発酵を利用したのかにも

興味を持った。これは結構深いテーマのような気がする。

そこには、色の文化とか、手を加える是非の美意識とか、作ることの

できた茶器との相性とか、様々な国の歴史が潜んでいるんだと思う。


短い時間だけど多くのことを考えさせてくれたイベントでした。

コペンハーゲンさんありがとう。




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Posted on 2009/03/28 Sat. 21:42    TB: 0    CM: 0

卒業式の役割 

前回に続いてまた卒業式絡みの話題になりました。

昨日は氷雨のなか、息子の卒業式に参列(?)してきました。

忙しさにかまけて、一度も彼の通っている大学に行ったことがなく、

子供もこれで2人とも大学とは縁が切れることになり、少々無理を

して参列してきました。僕は両親がいたって健在で、孫の卒業式に

出たいと、尾道から出てきたこともあります。


しかし朝から冷たい雨。にも拘わらずこのマンモス校に集まった

父兄の数もまたすごい数で、会場に入るまでが大変だった。

案内係の人達などは慣れたもので、テキパキと人を誘導していたが、

問題は学生である。開始時刻になってもだらだらと入ってくるし、

半分以上過ぎてもまだ途中から入ってくる。自由な校風と言えば

それまでだが、父兄の熱心さ(?)とのギャップが妙に気になった。

最後は皆右手をあげて「都の西北・・」の大合唱で、少々腰が引けた

が、それはそれで迫力満点。私の卒業した大学とは随分違った

「一体感」が羨ましくはあった。


前回書いたように、卒業式も、大学のそれは高校までのものとは

学生にとっての位置づけが違う。半ば大人になっている(と期待した

いが)ので涙もなかったようであるが、親の方を見るとそこかしこそれ

らしい光景を見たので親の感慨の方が総じて強いのであろう。その

ことが少々気になった。子供への期待が空回りというか、子離れ

不十分というか、そういうことも多少言いたいところでもあるが、

まあこういうときは昔から親の方により感慨があるのは結婚式なんか

とも同じかもしれない。


自分のこととして考えれば、子育て(狭義の)はこれで終了という想い

がある。責任を果たしたとまでは言わないが、これで2人の子に大学

教育を受けさせたという自己満足である。本人たちが本当に「勉強」

したかと言えばかなり心もとないが、人生の中で働かないことが

許される最後の贅沢な時間を過ごさせることができたことは間違いない。

自分も後になって学生生活を振り返ってそう思ったものだ。


彼らも同じように思ってくれることを期待しつつ、”もっと勉強してよけば

よかった”と残念がってくれれば意義のあった大学生活だったと思う。

そう思うまでには少々時間がかかるだろうが。



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Posted on 2009/03/26 Thu. 12:33    TB: 0    CM: 0

泣きたい理由 

卒業式のシーズンですね。一部の例外はあるかもしれないげど、誰でも

一度や二度の経験はあると思う。前からよく思うのは、20代前半までの

人生で何度卒業式があるんだろうということ。その後社会人になってから

はまず「卒業式」というのを経験するチャンスはうんと減る。まあ、資格を

とるとか、夜間部に通うとか、また違う意味で感慨深い卒業式もあるだろう。

でも10代に経験するあの”卒業式”はやはり独特で特別なもののように

思う。


友達との別れ、恩師の存在、クラブ活動での成果、仲間の存在、そして

成就した恋や孤独を味わった恋・・・いろんなことが贅沢なくらいその

時代に起きて、それらが強く心に残る時代である。そして恐ろしく簡単に

過ぎ去っていってしまう。たぶん中学と高校の卒業式は特にその傾向が

強い。「自分」というものを意識し始め、とてもデリケートな感受性が育ち

始め、またそれらが自分を苦しめる。


同時にいろんな後悔が一杯詰まっている時代でもある。生きる意味とか、

不器用な自分への苛立ちとか、どれもこれも懐かしい。


今平均寿命というのがどんどん伸びている。医学の進歩や豊かな食料。

肉体として長生きできる手段やツールに溢れている。でもあの卒業式の

感動は最初のたかが10年に凝縮されていると考えたら、その後の人生

の意味というのは何なのかという疑問がどうしても沸く。確かに家庭を

持って、子孫を残して、仕事をして社会に貢献する。だから人類は増えて

行って便利な世の中を享受する。


でも原人とか類人猿とかが出てきてから生き延びてきた、あの100万年

以上の長い長い飢餓の時間と、卒業式で感じるあのみずみずしい感性は

人間として決して無関係ではないような気がしてならない。


ニュースで卒業式のことを報じていた。昔は「仰げば尊し」が定番だっ

た。今は「旅立ちの日」とか森山直太郎の「さくら」なんかの方が多い

ようである。明治に始まった「仰げば尊し」は、今や歌詞もわかりづらいと

いう話もある。個人的には歌詞が理解しにくかったら教えればよいと思う

のであるが、今使われている曲も良い曲である。インタビューしていたら、

生徒が「卒業式ではやはり泣きたいと思う」と言っていた。


その気持ちがよくわかる。是非とも卒業式は”泣かせて”あげて欲しいと。

参列した親も、子供の成長に自分の昔を重ね合わせているはずだ。

いろんな後悔や、それをいとおしく感じる若き日の自分、そして子供がこれ

から遭遇するであろうタフな事々。せめて卒業式のときくらい皆が泣ける

世の中であって欲しい。涙に難しい理由はいらないと思う。それが許され

る世の中はきっと幸せな世の中だと思うから。



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Posted on 2009/03/21 Sat. 13:01    TB: 0    CM: 0

一人出張の効用 

ちょっと雑用が多くてブログを書く時間(というより気持の向い様

と言うべきか)がなかった。


最近、久し振りに関西方面に出張した。降雪の心配があったので

「旅の友」を持って行こうと考え、以前急ぎ足で読んだ「国のささやき」

を持って新幹線に乗った。この出張は2日目に岡山まで行ったので、

雪で止まることもなかったが読む時間は結構あった。


東京を発ってすぐ読書モードになったので一気に読み始めたら、

名古屋あたりで不覚にも涙がでてきてしまった。この本は本当に

凝縮された意味を極限の言葉で表現していて、そこに無駄がない。

その内容とその凝縮技術に一種の恍惚感を感じてしまったからだ。

そして今は亡き、多くの偉人達の迷いのない思想が、音楽という

ひとつの思想表現を通して紹介されているのであるが、作者の

フィルターを構成している軸がぶれてなくて、本当に心地よいのである。

自分が聴いたことのある演奏が出てくるとさらに没頭してしまうが、

聞いたことのないCDなどが紹介されていると、どうしても買い求めて

聴きたくなる。読みながら頭の中で、たぶんこんなんだろうという「音」が、

鳴っているのである。それを確かめたい衝動と言っても良いかもしれない。


列車というのは良い。どこかに目的を持って移動しなければならない

というミッションが免罪符になっているお陰で、罪悪感なしにその時間

を読書に当たられる。それでより集中できるのではなかろうか。


こういう贅沢な時間を普通のサラリーマンが持てる機会が少なくなった。

あっても同僚と出張すればそんな時間にはならないだろう。

非常に残念な気がする。そういう時間の持てない人の仕事の質が

気になるのである。でもこの不況で出張回数や人数が減っている

のではないか。であればこういう贅沢な時間にすり替えることは可能

になるかもしれない。不況はチャンスである(?)



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Posted on 2009/03/17 Tue. 15:17    TB: 0    CM: 0

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