大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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犬を知ることは人間を知ること 

チリの巨大地震の津波さわぎで、交通もズタズタになった一日でしたね。ハイチがまだこれから復興という時に今度はチリ。これから被害の概要が明らかになって行くのでしょうが続けての大地震。しかも今回は1日かけて津波が地球の裏側からやってきた。長い時間の実況中継。その「時間の長さ」と「災害」のコンビネーションに新鮮な感覚を持ちました。まだ避難している人がいるので、このことは少し時間をおいて考えてみようと思っています。


今日は前から企画されていたうちのマンションのペットクラブのセミナーが開催されました。カミさんが会長なもんで一日サポート役であれこれと忙しくしていました。獣医師で東京農大の先生でもある増田宏司先生に講演してもらいました。「犬の幸せ 私の幸せ」などの本を書いておられます。犬は飼っているけど、こういう専門家の話を聞いたのは初めてでした。



まずは、犬の嗅覚が人間の1億倍とか、視力は弱く50cm以内の物はおぼろげにしか見えないとか、聴覚は人間の1000倍であるが小さな音が聞こえるというより音の識別能力がすごい、というような話で、今までの疑問の多くが氷解しました。


しかし、伴侶としてのペットを亡くしたときのペットロスへの対応とか、セラピードックのこと、災害で避難するときのペットへの対応など、普段深く考えていなかった話題にも触れて頂き、次第に話に引き込まれて行きました。


犬の飼い主への無条件の忠誠心とか、反対に存在する人間の身勝手さなどの話を聞きながら、ペットを知ることは人間自身を知ることにつながっていることに気付かされました。


たかがペットと思って聞いているうちに多くのことを考えさせられた一日でした。

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Posted on 2010/02/28 Sun. 22:30    TB: 0    CM: 0

ひとつのメダルと2つの涙 

浅田真央のスケートで事実上オリンピックが終わりました。銀に終わった直後のインタビューでの彼女の涙に多くの人が涙ぐんだと思います。


まだ19歳の胸を痛めた苛酷な月日。負けん気に溢れたその一直線な闘志。そして絵になる容姿。いろんなものが見ていた人のこころに溢れてきていたと思います。相手が韓国というのも少しその感情を複雑にしてる。


エリートで来た真央の最初の明確な挫折。それが彼女を大人にして、彼女の今の魅力をこれから違うものに変えて行く新たなスタート。


ジュニア時代から、そしてこれからも長く続く因縁の対決かもしれないけど、出来すぎたような条件がこれだけそろった同志というのもまずお目にかからないと思う。ライバルという言葉ではとても表すことのできないドラマを見せてもらいました。どこか新しい形のヒロインだと思います。


シンプルであっぱれなアスリートであり、上質なアイドル。感動のドラマでした。


そのレベルの高い勝負は、大げさに言えば宮本武蔵と佐々木小次郎的世界になっていくかも知れません。



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Posted on 2010/02/27 Sat. 22:58    TB: 0    CM: 2

emailでもOKっていう「こころの相談」 

最近読んだ本に、吉成真由美の「危険な脳はこうして作られる」っていう本があります。


その中に、「全体構造を3次元にする必要のあるものにワープロは向いていない」とか、「内容のはっきりしているものにはインターネットは便利。そうでないものには至極危険」という言葉がありました。


私の仕事上の悩みのひとつに「カウンセリングをメールで出来るか」というテーマがあります。悩みは星の数ほどあるんだけど、これは結構ビジネスを左右する重要なテーマです。最近メールでも相談を受付けますっていう業者が現れています。コストも安くできるし、何時でもどこでもメールは打てるので、リスクを潜在化させにくい、っていうセールスポイントです。わが社は電話と面談での相談しか受け入れていません。それで仕事が取れないことがよくあります。


確かに第一発信者の立場とその状況ではそれはYesかもしれない。でもそれが、例えば「水は何からできているのですか?」っていうような内容なら全然問題ないでしょうが、「生きていても仕方がないって思い始めていて自分でも怖くなるんです。助けてください。」っていう相談ならどうでしょう?


”内容のはっきりしていない相談事で、3次元で考えなければならないもの”をメールで相談できるのでしょうか。

そもそも打つのはいつでも打てるけど、いつその答えが返ってくるかもわからない。その遅れとその答えの内容でその人が直ちに最後の希望すら捨てるかもしれない。


これはもうビジネスとして何を売っているのか、っていう哲学の問題でもあります。


昨今、デフレという呼び名で値段の低さが最優先される風潮があります。質の問題を語ると逃げているって言われるような気もします。


でも、内容がはっきりして、触れば何かわかるものなら安い方が良いって言えるけど、カウンセリングってどうやってその質を決めるのでしょう?その値段ってどうやって決めるでしょうか?


今度個人の方の相談も受け入れようかと社員と話しています。60分1万円とか・・・ そういう相場です。

マッサージがだいたい10分1千円なので60分なら6千円です。でもマッサージって内容がはっきりしているサービスですよね。時間に比例する効果がある程度見込めるサービスです。


メール相談は頑固に拒否していますが、それがなければビジネスができなるなる時代になっているのかもしれない。それはもう違うビジネスなのかもしれない。それで売るサービスはどういうものでなければならないのか?

逆にそう考えてみようと思っている今日この頃です。



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Posted on 2010/02/23 Tue. 21:44    TB: 0    CM: 1

命の出発と結婚式 

昨日結婚式に出席してきました。披露宴だけではなく式にも出席したのは本当に久しぶりです。


最近は周りでも結婚する人が減っているのかもしれませんが、結婚式に招待されてもそもそも式に出席するというのは通常親族か、結構親しい友人でなければないことで、あの式の厳粛さをしばらく忘れていたような気がします。


式場から見れば、同じ日に何組みも式を挙げるし、半ば規格化された流れ作業の一環に過ぎないでしょう。でも結婚する当人や家族や親しい友人にとっては一生に一度の感動の瞬間です。もっとも一生に1回ではないケースも増えてはいるでしょうが、やはりその時は1回だと思って感動しているはずです。


そういう意味では例え決まり切った式次第であっても、全て当事者が違うオリジナルな瞬間です。


会場の一番後ろで二人を見ながら、何故か自分の子供の出産に立ち会ったときの情景思い出していました。この二人がこの瞬間に結ばれて、これから新たな命を生んでゆく出発点のような気がしたのだと思います。もちろん別に結婚しなくても命を生むことはできるけど、その命が望まれてまた認められるプロセスとしての結婚式の意義というのが確かにあるような気がしたのだと思います。


次に自分が式を挙げたときのあのジーンとした気持ちを思い出していました。式を挙げるまでの数々の作業に疲れていて、最初は結婚自体誰か他人のイベントのような感覚で式に臨んだような気がします。でも式が進んで行くと次第に当事者になり、そして途中から”自分の心の中のイベント”にしっかりとなって行ったあの自分の変化を覚えています。


久しぶりに誓いの言葉を聴いて、古い玉手箱のふたを開けていました。


生きるということはこれを忘れてしまうことでもあるのでしょう。そうしなければいけなかったのか、他に方法はなかったのか。そして、これからもまたこの感覚を忘れて生きていくのか。少し真剣に自分の心に問いかけました。ほんの少しの時間だったけど、あまり照れることなく想いを巡らすことができたような気がします。


「愛は寛容で、情け深い。愛はねたまず、誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、自己の利益を求めず、憤らず、恨みを抱かない。不義を喜ばず真理を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える」(コリント人への第一の手紙13章)


う?ん。確かに難しい!!


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Posted on 2010/02/21 Sun. 23:44    TB: 0    CM: 0

お節介文化という考え方 

昨日珍しい光景に遭遇しました。前の日に寝ていないので終日アドレナリン欠乏状態でしたが、あの浮遊感の中で出てくる企画が結構斬新で、かえって得るものの多い一日でした。健康ではないけど健全な一日になりました。


そういう日だから過剰に反応してしまってこれを書いているのであろうと思いますが、帰宅の電車の中のことです。


私がいつも通勤に使う電車は、途中から90度北に上がってしまう路線と合流しているのですが、当然そっち方面に行きたい人は真っすぐ行く電車に乗ってはいけません。昔営業である会社に行ったとき、それを知らないためにまったく違うところに行って大変な遅刻をしてしまったことがあるので、そのことは身にしみてわかっていました。もちろんその時はその電車を使うところに住んでいたわけではありません。


発車を待っているとき、右隣に50代風のサラリーマン男性がイヤホンで音楽を聴きながら夢中に本を読んでいました。そうしたら向いに座っていた中年女性2人が、車両の中の駅名の掲示を見て、「○○駅って書いてあるから大丈夫ね」という会話をしたのです。ここまではこのイベントがあったから覚えている会話で、本来そういう会話を記憶することはまずないような普通の会話でした。


とその時です。右に座っていたその男性が、何やら独り言を言ったと思ったら、突然大きな声で、「○○駅に行かれるんですか?」とその2人に聞いたのです。間に何人か人が立っていたので、少々異様なボリュームでなければ届かない空間ではありましたが、唐突であることは確かです。実はその○○駅はその電車では行かない駅だったのです。その男性は”そこに行きたいのであればこの電車は行かない”ということを教えてあげようとしたのでした。


結局、「いや違うんです。さっき聞かれたのでそう答えたのですが、間違ってなかったって確認したんです」と答えられて、当の男性は結構バツが悪い結末でした。


驚いたのは、この男性の聴力のこと。次にその距離の隔たりをモノともせず、忠告したパワー(あるいは勇気)。

結果は少々空振りだったけど、周囲は尊敬50%、っていう反応。


これでちょっと言いたかったことは、「お節介」ということです。”大阪のおばちゃん”なんかに象徴される”お節介文化”は、歴史のあるソサエティーのひとつの特徴でないかと思っています。下町にはまだ残ってはいるでしょうが、東京、とりわけこういう通勤電車ではみられなくなった文化だと思います。もっと距離が近ければそういう忠告はするでしょうが、この距離感(反対のシートですよ!)ではないですね。(,この男性の行動は間違いなく極端なお節介で、少々「文化」に結びつけるのは強引ではありますが・・)


実は「こころの健康」とこの「お節介」は大いに関係があると思っています。”親切”(お節介と親切は少々異なりますが)をするにはパワーが必要です。見かけでもよいけど「自己肯定」も必要です。自信と言ってもよい。一方リスクもあります。恥もかくかもしれません。だから、元気のないときにはまずできなくなります。さらに親切を受けることにもエネルギーが必要なので、それを避ける本能が働きます。


ところが、だからと言ってお節介を避けているとお節介も親切もできなくなってしまいます。その技術は退化するのです。最初からそのやり方やそれをする効用(親切では実はされる側よりする側の方が気持ちが良い)を知らない人も結構いそうなので、退化すらしない。


皆がそういう状態になると悪循環が起こります。スキルがダウンしてますますできなくなって、実践がないのでまた退化する。される機会もなくなるのですることも無くなる。歩かなくなって、歩く人も見なくなると、皆歩くことを忘れてしまうようなもの。


最近よく「コミュニケーション能力」という言葉が使われます。その力を上げると称するセミナーとかトレーニングがたくさんあります。EAPをやっている人間の感覚を正直に言えば、その根本にあるべき能力は実は「お節介」になれる(そして続けられる)能力ではないかと。もっと言えばお節介をいつも当たり前と感じられる能力(つまり習慣)ではないかと思っています。互いにこれができる社会には「孤独」が少ない。うるさくて手間のかかる濃密な人間関係に溢れている。この”ウザさ”が実は大切なのではないかと思っています。


これは親子の関係や教師と生徒の関係などにも当てはまると思います。日本はもう遅いかもしれないけど、出来ることがない訳でもないでしょう。


会社の中で起こっているメンタルヘルスの問題の原因は、「お節介欠乏症」ではないかと思っています。お節介をしようとすると周りの人間への関心が広がる。された迷惑感もうれしさもわかる。そうすると、どうすると迷惑で、どうするとうれしいのかもわかる。そしてお節介スキルが上がる。


これをトレーニングするって難しい。そもそもトレーニングすることでもないけど・・・ 

でもそういうことも必要な時代になってきたことは間違いないでしょう。



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Posted on 2010/02/19 Fri. 17:15    TB: 0    CM: 3

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