大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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花冷えとゆとり教育 

今週の月曜日はやたらと冷えて毛穴が驚いて収縮したと思ったら、今日あたりはまた結構な陽気です。明日はさらに暖かくなるそうですね。


「花冷え」という言葉があるくらいなので、この季節の急な冷え込みは、春が近いと思っている体にとっては応えます。一種のフェイントと言っても良いでしょう。


大昔の話になりますが、マレーシアに6年以上駐在して帰国したのが確か3月の終わり。4月の2日とか3日に東京に積るような大雪が降りました。当時世田谷の経堂のマンションに戻ってきたのですが、9階のベランダから、南方向には高い建物が一切なく、東京農大、馬事公苑、さらに横浜方向が一面の雪景色となっていて、それはみごとなものでした。南国の気候に適応していた体が本当に驚いた様子を覚えています。


その時思ったものです。”「寒い」ということは非常に知的な刺激をする”ということを。


暖かいことは体に優しいと思います。もちろん真夏のような暑さ、特に湿度は苛酷かもしれないけど、寒いことに比べればはるかに体へのダメッジは少ない。もちろんインドや中東の砂漠のような50度以上というのは”火傷”の領域に入るので別格だけど、リゾートと言われるところの多くが暖かいところのイメージであることからそのことはわかります。


暖かい気候は「体」に優しいだけではなく「こころ」にも(たぶん)優しい。因幡の白ウサギにとっての真水のように傷ついたものを癒してくれる。


でも一方、当たり前のことではあるが、緊張がないことは大切なものを鍛えてくれる作用には乏しい。


マレーシアに居た時、”凍え死ぬことがない世界”をどこか楽しんでいたような気がします。あまり考えなくても物理的・肉体的にはなかなか死ぬような目には会わないという気がする。バナナをはじめ食べるものは至るところにあった。着るものもTシャツで十分。人間そういう根源的な悩みが減ると成長意欲とか改善意欲なども薄らぐのではないかと思った記憶があります。


4月の雪はそれに冷水を浴びさせてくれました。景色が美しかった。そして一晩外にいると凍え死ぬのではないかと思った。


「知性」とか「考える力」というのは、気合いを入れたって習得できるもんではないという気がします。もっと環境の力が大きい。それは自然環境だけではなく、貧困とか病気とかそういう”逆境”とも無関係ではないでしょう。


それで今日の新聞です。学校の教科書の分量が3割増えたという記事が日経に載っていました。ゆとり教育を転換するのだとか。


競争に勝ち抜くとか、自分を成長させるとか、そういうことにはやはり寒さが必要なのではないか。鍛えなければ人は成長しない。何を癒すのか、またどんな時癒しが必要なのか、人生を考えるときそういうこともとても大切なことではないかと思うわけです。”ゆとり”だけでは子供は成長しないのです。


”ひとは鍛えなければ退化する。鍛え過ぎると壊れてしまう。” 


花冷えから教科書のことまで連想してしまった今日でした。



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Posted on 2010/03/31 Wed. 15:55    TB: 0    CM: 0

そば打ち体験記 ?筆は弘法を選ばず? 

この週末に「そば打ち」体験をしました。陶器や磁器が好きでも自分で作ろうとはしない人間が、ぞばが好きだからと言って自分で打つはずがない。なぜそういうことをしたかと言えば高校の同級生が「そば打ち道場」をやっていてそば打ち3段の「師匠」だったからです。


彼は毎年正月に催すクラス会にここ何回か自分でそばを打って持ってきてくれていますが、なぜか今年のそばは本当に美味しくて、強引に彼の道場に押し掛ける企画を提案してしまった。(いや、去年のものも美味しかったのだろうが、酔いが回っていたせいか自分の衝動を刺激するほどのイベントにはならなかった由)


そうは行ってもその通り実現するとは思っていませんでしたが、彼はちゃんと覚えていて誘いをくれたんです。


そばは好きです。でも讃岐うどんも好きです。ラーメンも好きなので、そう言うと”そばが好き”というより麺類好き、と言っているのと同じで、自分でも”そばが好き”というときにいつも本当にそうか引っかかっていたものです。


今回、そういうことで「そば打ち体験」をさせてもらうことができました。10人ほどの同窓生が集まり、そば打ちの後、”そば尽くし”の豪華な酒宴を楽しませてもらいました。


”このそばは旨い”と言ってもどこがどう旨いのか説明できませんでしたが、これで何となくわかるようになったような気がします。それは自分の手で作ってみて初めて実感できる感覚なんだと思いました。


「料理が旨い」と言うことは「料理が上手い」ことなんですね、きっと。


つまり「作る」ことは「技術」であるから。もちろん「知識」も必要だけど、何より技術を磨く「努力」が必要です。その為には「本当に好き」でなければならない。


彼の言葉で印象に残っているのは、「要するに如何にたくさん打つかだ。しかも間が空いては駄目で、コンスタントに打っていなければ腕は上がらない」という言葉。これは、職人の言葉です。頭ではなく体でしか腕は上達しないし、技術の向上にショートカットはない、とういうことなんだと思います。


それともうひとつ実感したのは、「そば」というのは実に日本的な「文化」だということ。そば粉の吟味と配合、水の加え方、打つ時の力の入れ方と抜き方、畳む時の要領、切り方、茹で方、締め(冷やし)方、そして最後に器とその上への盛り方。粉文化ではあるけどいわゆる味付けは無し。薬味だけで食べるその姿勢。素材とそれを最大限に生かすシンプルな技。シンプルであることで出せる奥の深さ。


外国の人にはなかなか分からない食文化だと思います。茶の湯にも共通する非常に”そぎ落としたもの”で表現しようとする力。それがある意味日本文化のひとつの典型。大げさに言えば本居宣長の言う「山桜」ですか。


一回のそば打ちでそこまでわかるか?と師匠のお叱りが飛んできそうですが、私はやはり職人になれる人間ではないことも分かりました。自分に何が欠けているのか、そんなことも再認識した一日でしたが、自分で打って持って帰ったそばは旨かった。形は悪いが評判も上々。筆は弘法を選ばず??







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Posted on 2010/03/29 Mon. 11:10    TB: 0    CM: 4

名器の意味 

私の20年来の友人のアメリカ人で美術品の世界的コレクターの人がいます。Andy Warhal やJasper Johnsと言ったアメリカン・コンテンポラリーアートのコレクションは見事です。日本の古美術に関しても相当のコレクションを持っています。先日来日した造形作家のクリストとも長年の友人だそうです。
日本とアメリカを往復していて、よく音楽会に一緒にいったりして遊んでもらっています。

実はかの名器であるストラディバリウスを持っていて、ベルリンフィルのコンサートマスターで今はソリストとして活躍している演奏家に無償貸与しています。その代わり年に一回彼女のためにコンサートを催すというのが約束だそうです。

美術品はコレクションのあるデンバー美術館に行かなければなかなか見る事ができませんが、このストラディバリの演奏会には毎年ご招待頂いて”かぶりつき”で味わう光栄に浴しています。美術の知識はあまりないのですが音楽の方は多少はついて行けるところもあり、心を入れて聴いています。

先日、TVでバイオリンの聴き比べというのをやっていて、なかなか素人にはその違いがわからなかった。でもこの生で聴くストラディは本当にすごい。演奏の腕ももちろん大きな要素なんでしょうが、明らかに音が違う。そのことを思い出しました。

どうしてこんなに音が違うのか? すごい音と言っても所詮主観的なものだと思いますが、あれだけ世界のプロが絶賛するんだから明らかな理由があっても良いと思うし、科学的な分析で何らかの説明がされても良いように思うがそういった解説に接したことがない。

実は僕が主に演奏しているサックスの世界でも、特にJazzの演奏家にとってはアメリカンセルマーといういわゆるヴィンテージものが有名で、僕もアメリカに居るとき楽器の中古店に通いつめて何本か手に入れました。まあ気分のせいもあるのかもしれないけど、明らかに音に味がある。アマチュアの僕には自信を持った言い方はできないが、音色や音の抜けのようなものがちがうし、体への馴染み方までちがう。

ストラディバリウスとアメリカンセルマーに共通していることの一つに「古い」ということ、そして今は作っていないという事があります。

もう作っていないということは、時が経つほど数が減っていくし、良い状態に保つ事自体骨が折れるわけです。人間は”希少なもの”には特別な思いを抱くので、そういう暗示もあるのかもしれない。

推測ではありますが、楽器の場合音を長年しみ込ませることで素材の分子組成まで異なってくるのではないかと思うのです。お酒もそうですよね。まあ人間もそうと言いたいけど例外もある。例外と言えば楽器もお酒もそうか。でもとにかく古いという、時間をかけなければ作ることの出来ない価値には、その時間がしみ込んだだけの価値が乗り移ると考えても可笑しくはないように思います。

芳醇な香りと味。憧れるものがあります。残りの時間が少なくなっていくに従って生まれてくる価値。そういうものがなければ人は生きていけないのではないかと。

名器を持てばそれだけ腕が問われ、ひいては人格まで問われるような気がします。静かにもの言わぬ楽器にじっくりと向き合って自分を振り返ろうと・・・  そんなことを考えました。


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Posted on 2010/03/23 Tue. 23:32    TB: 0    CM: 0

鳩山大統領 

ニュースで鳩山総理が今はやりのTwitterで入ってくる国民の声を反映した政策をしたい、と語ったという話をしていました。一方、例の小沢幹事長は、どこまで意識的かは別としてますます独裁色を強めているようで、党内での反対意見を出させない環境作りに余念がないようです。

自民党も自民党なので、この期に及んでも焦点がぼけていて、頼りない事この上ないが、鳩山さんも相当に頼りない。

今や私の持論になりつつありますが、いっそのこと日本も直接民主主義にしたらどうでしょう。地方自治の首長と同じように国民が総理大臣を選んだらよい。要するに大統領制です。そうすると小沢さんも不要になるし、民主党の好きな「透明な政治」がより簡単にできるようになると思います。

小泉さんの人気はすでに大統領制での直接選挙に近かったし、最近雨後の筍のように出てくる素人政治家現象を考えても、国会議員は「個人」ではなく「数」としての議員であることがわかります。つまりそうであれば、議員を選ばなくて党を選んだらよくて、それは比例代表制そのものということです。

どの党に何票入ったかを競えばよいのでそもそも国会議員は不要です。どうせ国会議員は「党の決定」通りに票を入れる訳だから国会議員はそれ自体「票」以上の意味はないということです。

これは実は株式会社の株主とそっくりです。株を多く持っている人(あるいは会社)の議決権がそうでない人より多いという仕組みに似てきます。

そういう意味では鳩山総理が、Twitterで国民と対話すると民意を反映した政治ができるという発想になっていることが理解できます。議会制民主主義でそれを行うことは自分で制度を壊しているようなものですが、直接選挙で選ばれた県知事の方が発言権が大きくなっていることに関してももうトレンドがそうなっていることの証拠のように思います。

少なくとも議員の費やす税金がすべて子供手当に使えます。余ったお金で大人手当というのもあるかもしれませんね。

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Posted on 2010/03/22 Mon. 16:21    TB: 0    CM: 0

ゆっくり過ぎる景色の思い出 

木曜から昨日まで西の方に出張してきました。行きは新幹線で帰りは飛行機。どっちも本当に満席で、人の移動の波に巻き込まれたような感じでした。夏休みということもあるのでしょう。また少し景気が上向きになっていることもあるのかもしれません。

混んだ列車や飛行機と言うのは仕事とは言え疲れ方が違います。出張というのはそもそも移動すること自体も仕事の一部になっていて、厳密に言えばその時間も仕事をしていなければならないのかもしれないが、慣行として景色を見たり本を読んだりして、”合法的”に自分の好きな私的な時間として使っても普通は問題にはなりません。拘束されていることですでに私的な自由はないのですからまあセミプライベートな時間と空間と言うべきなのかもしれません。

しかし、混んでいたりハードなスケジュールであると疲れ方が違う。今回は特に風が強くて飛行機が遅れたため、土曜の午後の音楽の練習に参加できなかった。苦痛感が強ければそういう私的な空間としての効用も減ってしまいます。

また新幹線や飛行機の発達で、毎年この”仕事として拘束される時間”も減っています。それだけ出張の楽しみも減るけど、逆に条件によっては苦痛も減る。

新幹線に乗っていると思うけど、例えば普段ならまず行かない人里離れた場所にも新幹線は通っていて、簡単に多くのそういう場所とニアミスをしながら移動する。でも駅がない限り絶対にそういうところを歩いたりしないし、そこの空気に触れることはない。でもその景色に触れることはできるし、想像力があれば疑似訪問のようなことも可能かもしれない。

昔、中学生の頃、尾道から阪急の武庫之荘駅(調べたら尼崎市のようです)までフルートを習いに通っていましたが、急行とか特急に乗って三ノ宮に着くまで3時間半くらいかかっていたと思う。新幹線はまだなかったのでそれが一番早い行き方でした。あの退屈なことと言ったらなかった。しかも一時は毎週通っていたのでその苦痛感は並大抵のものではなかった。

しかしその時間は今思えば贅沢な時間だったのかも知れません。岡山の旭川を過ぎてしばらく行くと沿線で一番好きだった吉井川に差し掛かる。山陽本線からの景色で一番美しい。それからどんどん人里離れた場所に入って行き、和気、三石、相生と続く。竜野を過ぎた当たりから開けてきて姫路に続く・・・また、社内でもいろんな景色を味わった。前に座っている人はどこからきてどこまで行くのか、初めての旅か何度も来ているのか・・・若い人だったらどこに住んでいるんだろう、結婚しているんだろうかなど。とにかく退屈を紛らわせるあらゆる想像をしたものです。

早く通り過ぎる景色は記憶に残らないし、向かい合わせに座らない人のことはあまり考えない。
旅の味わい方も変わってきたし、出張の功罪も大きく変わった。

そんなことを考えていたら遠くなった自分の中学生時代を思い出していました。窓から外を見ると黄砂で覆われていた景色が富士のきれいな夕焼けに変わっていた。



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Posted on 2010/03/21 Sun. 17:46    TB: 0    CM: 0

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