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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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8月15日 

夏の暑い日に終戦を迎えたのは偶然なのだろうが、お盆で渋滞のひどくなった高速道路のニュースと、次から次へと繰り出される第二次世界大戦関連の番組の組み合わせには正直違和感を覚えます。終戦の時期がたまたまお盆の民族移動と重なる時期になったことも偶然だが、戦争を考えるタイミングとしては皆忙しいことです。


もちろん僕も戦後生まれですが、父親は特攻の生き残り。すぐ近くにそれを体験したその人が肉親として生きているので、多少なりともこの戦争を自分の中で手に触れる距離感でとらえることができるような気がしています。自分の中にある継続されたDNAの中で戦争を感じることができるような気がするのでしょうか。


戦後65年が経ち、実感としての戦争はもう社会の中には存在しません。どんなにこの時期にこれでもかと戦争番組を繰り返し放送しても、それは歴史の一知識にしかならないのかも知れません。他の国で戦争が続いているのに、それもひとつのニュースに過ぎません。


報道は”この記憶を風化させてはいけません”という声をいつも強調します。しかし残念ながら人間は自分の経験したことしか”本能的に”は反応できません。理性的には知識や決意も力を持つので、教育が無意味とは思いません。でも、人間が「戦争をしない」というのは、その自分体験を通じてその衝動が本能化した人にしか無理なのではないかと思うのです。しかも、その体験には「恨み」とか「憎しみ」の感情が付着しています。「悲惨さ」を回避したい本能と「仕返し」をしたい怒りの本能のどちらが優越するかは、一概には言えません。いろんな体験といろんな人の組み合わせがあるからです。


「もう2度とあのような戦争は繰り返してはいけません」という気持ちに反対の感情を持つ人はいないでしょう。しかしながら、体験した当の本人ですらそのことは確実とは思えないのに、それを体験していない後世の人間にとって、その決意が非常に危ういものであることを歴史は何度も証明しています。パレスチナとイスラエルの問題はこの事を証明する同時並行で今起こっている現実です。


話は変わりますが、12日のJALの事故のニュースをマレーシアのクアラルンプールのオフィースで開いた日経新聞で知ったときの情景を思い出します。ちょうど前日に義理の父が日本から到着したところで、ひとごとではありませんでした。あのニューズを見て背筋がぞっとしたあの感覚と、郷里で8月6日の原爆投下の日にTVの慰霊祭を見て黙とうしていた小学生のころの自分が何故か重なります。


自分の心の中にある痛みと、それなりに作り上げている不戦の決意と、人間や国家というものの危うさを無視できない自分が、TVから流れてくるニュースや番組を見ながら一層自分を不安にしています。


暑い盆休みが今年も終わります。


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Posted on 2010/08/15 Sun. 15:04    TB: 0    CM: 0

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