不法移民問題と蜘蛛の糸
今アメリカで不法移民の排斥運動が盛んになっていますが、何かに似ていると思っていたことに気が付きました。この蜘蛛の糸の話です。
アメリカはもちろん移民の国です。アメリカンインディアン以外は英国から始まり必ずどこかの国からの移民です。合法か非合法かの境目は実際は非常に曖昧です。法律で一気に合法化されたこともあれば、基準が緩くされて国籍取得が簡単になった時期もあります。
人がもっと必要なときには合法移民が増え、じゃまになると入り口を狭くして違法移民が増える。これはどの国にとっても当たり前のことで、アメリカも例外ではありません。
ただ、歴史の浅い国(近代的な意味で)アメリカでは、「君まではOKだけど君からは違う」という線が生々しく感じられるのだと思います。豊かだから絶え間なく移民が続くということもありますが、歴史のフィルターを通せるほど古くない時間の中でその鮮度が邪魔をして居る訳です。
難民の問題も根っこが同じです。どこまでが正義かというのは必ずしも普遍的な基準で判断できるものではありません。政治体制が変わると突然難民が発生する訳ですから、所詮勝てば官軍かもしれません。
日本も基本的には同じことをする運命にあると思います。そこまでハードな環境にならなくて済んできただけだと思います。
アメリカは他の国に「人権」主義を要求しています。合法移民と非合法移民の区別の中に人権の発想は見当たりません。
人は皆「カンダタ」だと芥川が言っています。人が集まって作る国も同じことです。中国のようにむき出しの国もあれば、アメリカのように偽善的な国もあり、日本のようにそのいずれも理解できない子供の国(明治までは違うと思うのですが)もあります。
蜘蛛の糸の深い意味を今更ながら反芻できたような気がして、今日は”少しだけ”霧が晴れたような一日でした。でも何も解決しません。解っても何も変えられない。無力感だけが残ります。
「知的生存競争」とその行方
アマゾンなんかでは自分がどんな本を読んでいるかによって近い世界のものを自動的に選択して紹介してくれますが、これが端末でも起こるということなのでしょう。無限に存在する情報の中から、勝手に自分好みを選んでくれていると、自分では意識していなかった自分が出来上がっていくような、好奇心とも恐怖心とも言えないような現象が起こるような気がします。
技術の発達が人間を変えて行く部分と、技術が人間の普遍(そして不変)な部分によって制限されるということの両方の現象が起こっていると思います。しかし、とにかく自分が動かなくても、「○○な人」向き、と定義された情報の群れがいつでも自分めがけてやってくることの快感と不快感の両方を想像してしまいます。
便利を利用したから起こる成長や達成と、不便ゆえに与えられた満足や達成の両方から、”いいとこ取り”ができるような器用な人間がどれだけいるのか、っていう興味も湧いてきます。
いろんな形での生存競争が存在するけど、これからは自分は動かないで洪水のような情報の中でしっかり自立でき、その中で自分の幸福に役立つものを”自ら”選べる能力を競う、言ってみれば「知的生存競争」とでもいうような時代になるのかもしれませんね。そうなるとおそらく自分の幸せとそれに寄与するものを選択できる能力が重要になってくるのだと思います。
この流れは、個々に違う価値観を作りそれを認め合う世界につながるかも知れませんが、一方ではサブミナル的にマスでの洗脳を容易にすることに通じているとも言えるでしょう。
本当に大変な時代がやってきたと思うのですが、スマートフォンなんかを本当に生活の一部として使っている今の若い人にはこういう感覚はあるのだろうかと思います。
その便利さを享受したい自分と、それに怖じけづいてしまう自分の両方がいます。皆さんはどう思います?
”てっぱん”の上の尾道
昨日からHNKの朝ドラで「てっぱん」というのが始まりました。僕の郷里の尾道が舞台です。久しぶりに見た尾道の景色にやはりいろんなことが触発されて、物思いに引き込まれました。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて・・・
という、室生犀星だったか、詩がありますが、交通がこれだけ発達した現代となっては、この”ふるさとまで”の道程に宿る時間やそのために掛けるエネルギーが違うので、もう「ふるさと」は昔の「ふるさと」ではありません。
あっという間に着いてしまうその物理現象によって心の有りようは変わってきますね。
今は広島空港が、事もあろうに尾道の近くまで移動してきたし、私の実家も今は新幹線の駅の近くに動いてきてしまった。新幹線の駅というのは何もないところに新しくできるので、そこに出来た町は歴史のない似たり寄ったりのものになる。現実の尾道と心の中の尾道の落差を残酷にも何度も簡単に味あわせてくれるこの交通の便利さによりその思いも強くなります。
このたび、尾道の景色をTVの画像で見たわけですが、これはやはり違っていました。もちろん新幹線の尾道ではなく、昔ながらの尾道に近い景色を集めているわけですが、そこにあった空気は自分が勝手に昔の想いにつなげられる空気のように思うのです。生身の自分がこちらに居ながら味わえる昔のままの自分なんでしょうか。
誤魔化せる有難さを持っているとも言えるでしょうか。テレビとか写真とかの映像の魔術かもしれません。
尾道弁が少々気になりなるし、ストーリーもいま一つリアリティーがないような気がしますが、やはりちゃんと起きてみたくなる自分がいました。なぜか”てっぱん”の上に乗っかってる擬人化された「尾道」という映像が浮かんできたりしましたが・・・
帰りたくなったり、帰りたくなくなったり・・・ ふるさとも忙しいことです。 そう言えばそういう歌もありましたね。
大人の考える平和
最近はその牙をなくしてしまったけど、昔のソ連を思い出してしまいました。頻発していた北方領土での漁船の抑留のことです。政治環境が変わったり経済環境が変わったからであろうが、それを聞かなくなって久しい。
”話し合いという手段がまったく無力である事を受け入れなければならない理不尽さ”の存在を理解できる日本人は少なくなっていると思っていました。今回中国にそれを感じた国民は相当居たはずだし、許容範囲を超えた我が国の弱さにストレスを感じたはずです。
「安全保障」という言葉が現実感のない言葉になって、民主党が躍進して、普天間の問題が起こった。
”理不尽さ”というのは、力がない時に感じる悲しい気持ちのことです。
経済力と軍事力と食料生産力。本来は全てが同じベクトルを持っている力ですが、「思想」とか「教育」によってそれぞれが別の力として理解されるようになることにも久しぶりに気付かされました。
平和のために軍事力を無くしたいと言い続けることは、理不尽さを受け入れる高次元の理念が必要ですが、人間はそんなに立派ではないですね。右の頬を打たれて左の頬を出す国家は残念ながら存在しない。人にも国家にも欲があるけど「国家の欲」は主体性がなく無機質で始末が悪い。
「大人の考える平和」とは何なのか。どうしたら近づけるのか。こういう事件が起きたときこそ目をそらさないで考えて欲しいと思いました。まだ大人になることを諦めないで欲しいと思っている人が居る限り。
「最大不快」より「最小不幸」?
久し振りのブログになります。
先週はとにかく多忙でゆっくりブログを書く時間がありませんでした。書きたいことはたくさんあるのだけど、気持が焦っていると書けないものですね。ゆったりとした時間が欲しいと思いつつこの連休を迎えました。
それと、今日は我が「サクソン・ファイブ」が地元の秋祭りに出演。まあ大きなミスもなく終えることができましたが、今回は今日まで全員が集まることができず、練習不足で最後まで気をもみました。終わってほっとしました。
民主党の総裁選は管さんが勝ちましたね。まあ国民の一般的生理として小沢さんはないだろうと思っていましたが、あれだけ議員票が競ったところに、今の議会制民主主義の問題があります。
直接選挙だったら管さん、間接選挙だったら小沢さんということですか。今の議員が政治のプロなら良しとするところですが、議員の利害が二重構造になっていることに問題があるのだと思うのです。党というのは議員を群れで動かす存在で、特に比例代表の場合は他の党と競っているのか、党内での競争が優先されているのか、まるでサラリーマンの出世競争と同じような原理が働いているので、こういう一般の国民感情と分離した現象が起こるのでしょう。
まあ「最大不快」のリスクを犯すなら「最小不幸」を選んだというのが国民判断だったと思います。どちらにしてもあまり意味のない厭なドラマだったような気がします。
明日も休みですがたまった仕事をしなければなりません。もう少しゆったりと流れる時間はいつ訪れるのでしょう。