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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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鍋島の秩序美と腰痛再発 

僕は腰に持病があって、歩くのは何ともないのですが、動かないで立っているとすぐ腰が痛くなってしまいます。


美術館なんかに行ってもじっと立っているのが辛くて、好きな絵とそうでもない絵にメリハリをつけて、なるべく立ちっぱなしの時間を短くするようにしています。


ところがサントリー美術館でやっている鍋島展に行って腰痛が出てしまいました。鍋島は前から李朝とならんで好きな焼き物で、いよいよ終わると言うので行ってきたのですが、どれも良くてメリハリをつけずに長く見入ってしまったことが原因です。今日は一日コルセットをつけて過ごしました。


今回のようにまとまった数の鍋島を見るのは初めてでしたが、どうしてこれが好きなのか少しわかったような気がしました。


鍋島はいわゆる御用窯として幕府への献上品を製造するという一定の役割を持っていました。それゆえ、その図柄も厳格に管理され、規則正しい秩序を重んじていました。


今回、多くの鍋島を一度に見ることができて、初めてそれらに共通する特徴を理解できたように思います。そう、ある種の「秩序美」を持っているのです。しかもそのことが一種の静寂美に繋がっているよう思うのです。


同じ有田でも民間の窯のような自由度を持っていなかったということは、製作に当たって斬新な意匠への試みとか、前例を踏襲しない新たな技術への挑戦というような面で多くの制約があったと思います。でも逆にそのことがある種の気品を醸し出していたと言っても良いように思うのです。


今、自由とか権利とかそういうものの価値を否定する人は多くありませんが、こういう美術品を見ると、人の営みの複雑さというものに気付かされます。一定の役割を強要されて、毎日繰り返される営みゆえに作りだされる美しさの存在というものをです。


話は変わりますが、モーツァルトを境にしてクラシック音楽の曲も大きく変わりましたが、バッハまでのバロックという「封建時代」(フランス革命の前までのヨーロッパ)の音楽は、一種の職人として王や領主から命じられて作らされたり、演奏された曲だったと言う側面があります。その「非自由」というもの自体がある種の「秩序美」を有しているのではないかと思っています。思想や講釈のない音楽の持っている安心させる力とか豊かさと言っても良いかもしれません。


鍋島という焼き物にも同じものを感じます。しかも色絵より染付や青磁にその深い味わいを感じます。シンプルであることの難しさとそれゆえの深さなのかもしれません。


学生時代にどうしても欲しい焼き物があって、店の人に頼んで月賦にしてもらったことがあります。いくつも持ってはいませんが、好きな焼き物は持っているだけで落ち着きます。絵画にはない”触って使える”実物感が好きなのだと思いますが、もうひとつ好きな条件があることに今回気付きました。


油断して腰痛が再発してしまったことで、自分の弱点(?)を再認識した展覧会でした。

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Posted on 2010/10/11 Mon. 00:09    TB: 0    CM: 0

アルゼンチンに勝った才能の多様性 

昨夜のサッカーは良い試合をしましたね! 用事があって録画でみたけど、十分互角の試合だったような気がします。アルゼンチンも手を抜いていたとは思えない。メッシも十分メッシだったし、十分悔しかったはずです。

監督も変わった。軸になる選手が世代交代した。ワールドカップでも決勝トーナメントに進めた。

いろんな背景があると思うけど、全体として、”考えて、ミスを怖がって、細かい技術を重視して、がんばった姿を国民に見せなければいけないと気負った日本的伝統のサッカー”から、一夜明けて、一皮剥けて、そして伸び伸びとして自信に満ちた(いや、そういうことすら拘らない)、そんなサッカーを見せてくれたような気がします。

どういうか・・エリート言われる選手達のサッカーではない、普通にそこにいるような若者が持っている、そして出せたスキルの底力とでも言おうか。今までとは違うタイプの才能が作り上げた試合と言ったらいいですかね・・・得点した岡崎も技より心とかパッションとか寡黙とかのイメージだし、一人で突破する選手ではなかった。ある意味、本田とは対照的な選手なのかも知れない。

おそらく今のチームのキーワードは、「多様性」」なんじゃあないかと言う気がします。個性とか、タイプとか、技術の多様性。それが生きたチームであり試合だったのではないかと。

今日本を襲う自信喪失と自虐的で建設的ではない自己弁護。メディアも政治家も教育者も企業家も、そして国民も、今回の先輩達のノーベル賞で受賞や、このアルゼンチンに勝った若者の中に”気持ちだけ”の自己肯定ではないしっかりした理由を見つけるべきではないかと言う気がします。

それにしても選手達は勝ったのにあまり興奮してなかったと思いません?何かそこにヒントがあるように思います。これを「快挙」というには照れを感じてしまうような何かです。多様性というのはそういうものかも知れません。

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Posted on 2010/10/09 Sat. 09:43    TB: 0    CM: 0

未来のノーベル賞受賞者は? 

ノーベル賞の明るい話題と、小沢さんの不愉快な話と、尖閣の危ない話が一緒になって週末を迎えようとしていますが、ノーベル賞の話題がやはり輝いていますね。


長い間一定の地道な努力を正しく続けてきた立派な人。そういう定義に当てはまる科学者が受賞していることに示唆に富んだものがあります。「人の在り方」というようなものの正当性に変化がないことに安堵しています。最近の日本に感じる多くの懐疑に一石を投じてくれているように思います。


でも、受賞の瞬間から人生が変わる科学者を見る、あの変な気持は去年と一緒です。同じような能力を持って同じような生活を続けてきたもっともっと多くの学者にはこの瞬間は訪れないんですよね。その差は運なのか、それともやはり才能とか人間の違いなのか・・・


偶然ということを私はあまり信じない人間なので、よりこのことに興味をそそられます。


それと、中国にやり込められている今日この頃、日本人の優秀さを外国の人が認めてくれている「誉」を感じますね。素直にうれしいです。


でも「時」の持つ怖さもあります。それは受賞者達が何十年も前に行った実績が今評価されているということです。今若い科学者がやっていること、彼らが生きているこの日本から将来同じような受賞者が出てくるのかという恐怖です。今味わっているお酒は50年前に仕込んで、その時間の長さがこんなに美味しい味を作ったということです。


何十年後には中国人の受賞者が日本人を圧倒するかもしれません。


今何が過去と違うのでしょうか。違っているものに謙虚になる必要がありますね。


今の日本は過去の日本が作ったし、未来の日本は今の日本が作るのですから。

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Posted on 2010/10/07 Thu. 23:36    TB: 0    CM: 0

小沢さんの「強制起訴」にみる”現代政治への適応異常” 

小沢さんが「強制起訴」ということになったというニュースは正直驚きました。

結論から言うと、彼が結局国会での説明をしていないことに対する国民感情がそうさせたということでしょう。

ただ、少々引っかかるのは、法治国家というのは”悪法も法なり”ということに我慢する倫理観も要求するのではないかと言う事です。「推定無罪」と言う言葉で表現するのは好きではありませんが。

裁判員裁判というのもややそのことに抵触しますが、「裁判」というのは”訴訟法”という法システムを超え、”真実を創造”しなければならない制度ですので、「民意」の意味がこの検察審査会とは違うと思うのです。その判決が人を裁く意味での最終結論になる制度が裁判です。死刑の是非もそれゆえのことです。形式論では結論の付け様のないグレーの部分というか、法の限界をそもそも超えている判断を許さざるを得ない性質を持っているので、そこに素人の素朴な判断の価値を高くする要素があります。

”疑わしきは罰せず”なのが訴訟ルールであるところに、そもそも素人の判断を了とする余地があるのか、という問題だと思うのです。その意味では検察の仕事というのはリレーの中継ぎのような立場かもしれません。

このことは政治と法律の本質的な違いに通じています。なぜ小沢氏は政治家として国会の証人喚問に応じないのか、ということが理解できる素人はあまり居ないと思います。検察が起訴しないという決定をしたことと無関係であると国民が思っていることを理解できない小沢氏の現代政治への適応異常を感じます。

いずれにしても、今回の小沢事件によって、検察審査会の存在がせめて裁判員裁判の10分の1くらいには世間に認知されたことがこの事件のひとつの収穫であったような気がします。

個人的には、万人に嫌われる要素に気付かない小沢さんが少々滑稽に映ります。ただ政治家として伝統的な力を管さんより持っている可能性を感じてしまう自分にも戸惑っています。

難しい世の中になったと思います。それはそのまま、何を期待しているのか我々自身も解らなくなっていることを意味するような気がします。


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Posted on 2010/10/04 Mon. 22:43    TB: 0    CM: 0

地検の逮捕は中国の仕業? 

検察がとんでもないことになっていますね。村木さんが無罪になって厚労省が新たなポストを用意した。その時に実は、男だとどうなっていただろう、という感覚を持っていました。

うまく言えないけど、女性の局長だから何か特別にやり玉にあがったということは無かっただろうかという感じと、彼女が一貫して自己の関与を否定し毅然とした態度を貫いたその姿にはどこか男にはないケレン味のなさを感じある種の心地よさを感じていたことと、無罪になった後何故か免罪符のように彼女に擦り寄った厚労省の男の組織・・・何故かそういう違和感を持っていました。彼女の表情とか姿勢に共感してしまうオーラすら感じていました。

そしてこの事件には何とも意外なオチが待っていた訳です。日本の裁判の質がまだマトモだったということもあるし、検察という公共の利益の番人が組織的に倫理観を喪失していたことに愕然とする感覚。

そして、最高検察庁が身内である地検の操作をすることの違和感。さらに「御上」という権威がもうとっくに尊敬の対象ではなくなっていたんだと言う民族的な喪失感。

考えれば考えるほど今回のことは奥が深い問題をはらんでいるように思います。

この事件が、尖閣諸島で落としどころを間違った中国が日本国民の目を他にそらす為に仕組んで、日本政府がそれに呼応して積極的に仕組んだ動きだったりしても驚かないかもしれない。

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Posted on 2010/10/01 Fri. 21:51    TB: 0    CM: 0

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