大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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深夜の快挙 

本当に素直に興奮しました。なでしこジャパンの快挙です。

僕も含め殆どの人が途中で敗北への心の準備をしたと思ったら2度も追いついて。

ピッチの上の彼女達の勝利への希望はいささかも揺るがなかったのでしょう。

恥ずかしい思いがします。

僕たちは普段、先を読む事で予防線を張って、プライドを保っている。行動を起こす前にストーリーを描いてしまう。

情報とは何か、経験とは何か・・・

そのことの不毛さに改めて気付かされました。

大震災のあった年の快挙。雑念のない無心の快挙。

本当に頭が下がります。

おめでとう。そして有り難う!

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カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2011/07/19 Tue. 23:10    TB: 0    CM: 0

タガログ語を聴きながら 

今日は久しぶりに何もイベントのない日曜日で、今年何度目かのミサに出席しました。

驚いたのは、”タガログ語”のミサだったこと。この教会は以前から韓国の人も多く、非常に国際的だとは思っていましたが、さすがに驚きました。何回かに1回こういうミサがあるのでしょう。あまり来ないの知りませんでした。

フィリピンは昔スペインの植民地だったことがあるのでカトリックが浸透しているのでしょう。マレーシアに居た時よくマラッカに行きましたが、ポルトガルの影響が強く、その子孫も大勢いましたし、イスラム教の国の中にあって、クリスチャン文化が残っていました。ちょうど同じ時代(15~16世紀のいわゆる大航海時代)に遡るのでしょう。

ギターを使ったタガログ語の聖歌がいくつも歌われ、日本の教会とは思えない雰囲気。子供のころから教会に通っているのでしょう。ミサに参加することが生活の一部になっているような自然な祈りでした。互いに異国に居ながら故郷に帰ってきたようなそんなリラックス様子でした。

そんなミサに参加しながら、日本人にはこういう宗教がないなあ、と考えていました。例えばアメリカに寺院とか神社があって、そこに日本人が通うというようなことはないですよね。国民としてのアイデンティティーの他にこういう宗教を同じくする人の仲間意識というものもあります。良い悪いではないけれど、日本人の固有性を改めて思いました。世界の中ではやはり少数派ですね。

もう少ししたらフランクフルトで「なでしこジャパン」の決勝戦が始まります。未だに教育の現場などでは日ノ丸や国歌がアンチ平和の象徴としてとらえられている部分がありますが、こういうスポーツの世界では星条旗と同じように日本人は日ノ丸を大切にするようになって久しいです。

宗教意識の希薄な日本人ですが、海外で日本人に会ったりすると、少し照れるほど日本人を意識します。それだけ「日本人」という意識も他の国民より強いように感じます。グローバルに行き来することが普通になった今の方がよりそういうことになるのかも知れません。

フィリピンの人の歌うタガログ語の聖歌を聴きながら、自分の中にある「日本人」ということを少し考えてしまいました。



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Posted on 2011/07/18 Mon. 00:17    TB: 0    CM: 0

美しい数学 

今日は気分が優れず、早めに帰宅しました。熱中症になる歳でもないし、昨夜の酒のせいかとも思ったけど、少し夏風邪をひいたのかもしれません。”節電風邪”ですかね・・・

「博士の愛した数式」で好きになった小川洋子が、数学の美について藤原正彦と行った対談の本をさっき読み終えました。「世にも美しい数学入門」という本です。少し時間ができたお陰で最後の30頁くらいを読み終えました。



博士の愛した数式 (新潮文庫)



世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書)


”三角形の内角の和が180度である”というのが如何に完成され絶対であるか、だから美しい。「友愛数」の話とか、江夏の背番号28が完全数(自分自身を除く約数を全部足すと自分自身になる数字???)であるとか・・・数が表す世界に「美」を見いだすという着想が面白い。「定理」にも美しいものとそうでないものがあるのだと。

数式のことはもうひとつ生理的について行けませんが、数学と美の関係をこれほど面白い話にしているお二人に敬意を評します。

物理学は実学(形而下学)だけど数学は哲学(形而上学)と言われていますが、数学というものの手助けがなければ多くの自然科学はその成果を達成できていないと思われます。そういう数学の存在がさらに面白いと思います。

藤原正彦は藤原ていとあの新田次郎の子供です。理系なのに文系的で情緒感覚が抜群な人です。昔からエッセイを良く読んでいたし、近年とみに日本文化と日本人本来の誇りとか価値を、忘れている(というか教えられていない)今の多くの日本人に伝えようとしていて、読むと自信が湧いてきます。確か最新号の文藝春秋に石原慎太郎とのこの種の対談が載っていたように思います。まだ読んでいませんが。

小川洋子は静謐な感受性が好きで、情緒に溺れない品性に引かれます。文系人間なのにその冷静さが理系的なのかもしれません。「博士の愛した数式」は特に映画の出来が良かったですね。奇麗な物語になっていて。

つまり、この二人は真反対の世界からそれぞれの個性の必然として互いに近づいてしまった。そんな対談でした。

美学という超形而上的な学問がありますが、数学の中にそれを感じ、それこそ数学のもつエッセンスであるという感じを強く持ちます。

ちょっといつもは使わない脳を使っている快感を感じます。

話は変わりますが、最近の日本は何か”ボコボコに叩かれている日本”という感じで、イライラしますね。
市民運動というものの醜さを菅首相に見ます。今までこんな政治家は居なかったのではないでしょうか。
新鮮な醜悪さに驚いています。

カープはやっと勝ちました。

巨人戦の初戦をドームに見に行ってまた力が抜けていたので、少し今元気になりました。実にナンセンスな話です。

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Posted on 2011/07/12 Tue. 23:30    TB: 0    CM: 0

蘇る音とその精神 

一昨日、本当に久しぶり(たぶん30年振り)にナベサダのカルテットをブルーノートで聴きました。

昔、彼のバークリーメソッドの教本を一所懸命勉強した者として、昔と変わらないオーソドキシーを長い時間の中でもう一度感じることができたコンサートでした。

改めて彼のJazzの正当性に触れ、迷い多き自らのスタイルに今更ながらの警鐘を与えてくれました。

今回のカルテットは若い外人ミュージシャンを従えての演奏でした。若さと正当性は矛盾すると思っていましたが、
若い人の中にも正統という音楽的五感を共有する才能があることが新鮮でした。

特にAaron Goldberg のピアノには並々ならぬ才能を感じました。ボストンのハーバードスクエアーにあるレガッタクラブで修行したことが解る伝統と進化の融合が解っている音でした。

ナベサダのサウンドに「意思を明確に感じるアドリブ」というものの希少性を感じました。

アーカイブと思っていた自分を恥じ入りました。

すばらしい人格の醸し出す普遍的なエッセンス。彼のJAZZに忘れていた大切なものを蘇らせてもらいました。

素敵な夜でした。

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Posted on 2011/07/07 Thu. 22:25    TB: 0    CM: 0

不条理を描く力 

今日はサクソン5の練習日。3月の震災の後初めて全員が揃って久しぶりにパートが埋まりました。音も抜けがなくて満足しました。

しかし新曲でまだ未完ながら持って行ったモーツアルトのト短調交響曲のJazz化編曲は今ひとつ納得出来る内容ではなく、再考の必要を感じました。低音が足らないのかな~

ところで、カープが負けたのでスポーツニュースを見ないように避けてNHKのBSに変えたら、「風の中の子供」という昭和初期の映画をやっていて、つい見てしまいました。


風の中の子供 [DVD]


清水宏という監督は知りませんでしたが、小津安二郎の親友だそうで、映画の中のシーンでの沈黙の多さと、その沈黙の間の中に伝えたいことを塗り込める手法はそっくりでした。

この映画が発表された時代は盧溝橋事件が起こって日中戦争が始まった年。丁度僕の父親と同じくらいの年齢の子供の世界を描いています。戦争に突入する直前の日本の社会、日本人の持っている伝統的な差別的な価値観や、貧富と人格の問題など、今ならオブラートに包まれて語られない「偽善」がない昔の日本がそこにありました。

子供の目を通しているのでその事も過剰な強調もなく伝わってきました。嘘のない人間的な「素の世界」と「ませていない子供」の健全さにホッとしました。

今はこんな子供は居ないですね。大人の世界とは隔絶した子供だけが持てる感性や、大人の秩序と混ざらない子供だけの社会。子供らしいまっすぐな正義感や子供時代にしか持てない大人への畏怖や尊敬や大人の世界の矛盾を少し揶揄する能力など、本当に昔存在していた「子供」という人種を見事に描いていて感心しました。

今の大人と子供の関係や、台詞で何でも表現しようとするシナリオのことも考えてしまいました。

僕は、橋田壽賀子のシナリオが嫌いで、向田邦子のそれが好きです。人生のドラマの多くは実際は「不条理」でできているので、台詞でそれを表現することはもともと無理です。だから映像や役者の表情や、それを補完する少なめの台詞がある。小津の映画にも同じ事が言えると思います。

受け手の感性が豊かだったのかもしれません。世の中の事を区別し切らないで理解する力を持っていた時代です。

最近の映画には、人生の「不条理」を当たり前のこととしてそのまま受け入れる姿勢が無くなっているように思います。全てを正義や善悪や倫理で割り切らない美や味というものがあるのに、それを利用していない。もうファンがそれを許さないのかもしれません。

偶然に見つけた映画でしたがいろいろ考えさせられ、新鮮でした。

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Posted on 2011/07/04 Mon. 00:47    TB: 0    CM: 0

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