大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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千の風になって 

今日は「サクソンファイブ」の演奏会でした。台風の接近が危ぶまれていましたが、演奏時間が終わる15時までには大きな変化はなく、なんとか無事に終了することができました。

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このサロンは一面カーペットで音が吸収されて困りました。でも和気あいあいで良かったです。もう4年連続の出演になります。真ん中が私です。

今年は自主コンサートをしようと目論んでいましたが、私を含めメンバー多忙で来年に持ち越しになりました。

前回のホールはとても音響が良くて、気持よく演奏できました。自分の実力を上手く見せてくれる音響と言うのはとても大切な要素です。今回のようにそれが出来ない時もまた実力が出ます。今日は環境をバネにできませんでした。

今日は1時間の演奏と言う約束でした。中々ピッタリに終わるのは何回やっても難しいものです。ましてや今日のように電車が止まるかもしれないという緊張感の中では妙なプレッシャーがあって大変でした。でも何とか練習した15曲を演奏しきれたので満足です。

アンコールで演奏した「千の風になって」は少々古いのですがしんみりする名曲ですね。でも客の年齢層が高い時
はそのまま終わると寂しさで終わってしまうので、その後に景気付けにカーペンターの「The Top of The World」で締めくくるパターンなんですが、今日は時間の関係でそれができませんでした。その意味で心残りがある演奏会でした。

広島カープはいつものように燃え付きないで終わりました。15年連続Bクラス。情けない!

さあ気分一新。明日から10月。下期が始まります。マイランドの入社式があるけど地方からの来る新入社員は果たして来れるだろうか・・・風が強よくてディズニーの花火は流石に中止でしょうね。

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Posted on 2012/09/30 Sun. 21:10    TB: 0    CM: 0

“何がなんぼ足らへんの?” 

今日はちょっと日本語の話をします。

頂いた本ですが、宋文洲の「猛語録」という、主に彼のTwitterから抜粋した言葉を収録した本を読んでいます。その言葉自体にも感銘を受け共感するものが多いのですが、何より彼の日本語の力に感心しています。

“得する時には「権利」を言う、損する時には「自由」を言う。” これなんか本当にその通りと思います。

でもその本の内容ではなく「日本語」というものを少し考えてみました。宋文洲さんの本とはちょっと違う文学と翻訳という話です。

日本語の中で特に漢字で表記されない言葉(大和言葉というべきか)の中には英語への翻訳が無理だと思われるものが多いと思います。

そういう意味ではサイデンステッカー氏が川端康成の「雪国」を翻訳してノーベル文学賞の受賞に貢献した時には本当に驚いたものです。あの本はとりわけ日本語の美しさに満ちていて、記号としての言語の範疇をはるかに超えていると思っていたからです。

学生時代に読んだ川端の「千羽鶴」など衝撃を覚えたものです。どこを切り取っても日本人でなければ味わえないと思うほど日本的な景色や物達で埋められていて、日本を知らない人には理解してもらえないような香りで満たされているように思いました。雪国も同様です。

サイデンステッカーは日本人がそれに感動した感覚を深く理解できるものを持っていたのだと思います。そして翻訳したのではなく、英語で、英語を母国語とする人たちが感じる同じような意味を持っている世界を別に表現したのだろうと思います。俳句を英語にするということがあったり、英語で“HAIKU"を作る人々がいるのと同じです。

こう書いていて気付いたのは大江健三郎氏のことです。同じくノーベル文学賞を受賞した日本人ですが、文体はまったく違いますね。全体が芸術的言語ではなくイデオロギー的言語に満ちていて、いたって「翻訳」するのが簡単そうに見えます。最初から英語で書いても書けるのではないかと思うほど日本の香りとは縁がない言葉が多い。最初から日本文化とは関係のないグローバルな世界を書いているからでしょう。

僕は川端康成の文章は本当に好きで、大江健三郎のそれは好きになれない。川端康成には思想がなく、美しいものを見ると周りの物が見えなくなるほど美に貪欲な人で、その感性だけで文章を作っているような人物だと思う。まあ人物としてどうこう言う対象の人ではにはならないと思います。その意味では大江健三郎はたぶんその考え方が僕とは相いれない。従って美に対する価値感や人生観も僕とは相当異なる。だから、日本語の話をしてもあまり客観的な意見とは言えないかもしれない。

ちょっと話がそれ始めてきたので元に戻します。そう、京都弁の事を書こうと思っていたのです。

僕の奥さんは京都生まれの人で、ゆえに中々奥の深い意味を持つ言語を駆使なさる才能があります。尾道生まれの田舎者の僕にはなかなかその真意が掴みかねる注意を要する危ない言語が多数含まれています。別な言い方をすれば翻訳できない言語に満ちている。微妙などっちにもとれない曖昧さを意識的に込めている言葉がたくさんあります。別の言い方をすると川端康成的でもあり、美しくもある。京都の景色のように。

その中で僕の好きな言葉のひとつに“何がなんぼ足らへんの?”(または”何がなんぼ足りひんの?”)と言うのがあります。たぶん目下の人、特に子供などに言う言葉だと思いますが、気に入らないことがあって何かを要求してうるさい時などに、その人に対して言う言葉です。

奥さんはこの言葉をうちの犬に対して使います。彼が食べ物をねだって吠えるときに。

非常に柔らかくて、その要求されていることに怒りを感じてない時に使う言葉だと思います。それを楽しんでいるとまで言ってよいかも。

これも英語に出来ないことばです。美しい言葉だと思います。

ブログの性質上、京都弁の怖い例は敢えて引用しませんが、表現力に富んだ言語には、反対にとても深く人を傷つけ得る言葉も豊富です。但し、大江健三郎のような直球ではないところはそれでも文化的で美しい??

言葉というのは本当に大切で、それで伝えられることは無限かもしれない。無言で表現するコミュニケーション方法もあるけど、ちょっとした言葉で傷つけあったり癒し合うことも、がっかりさせたり勇気付けられることもある。

何がなんぼ足りひんの? そう聞きたくなる人が増えてきた??

外国の人に学ばなければならないと思う今日この頃でした。

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Posted on 2012/09/22 Sat. 19:19    TB: 0    CM: 0

二心なき世界に照れてしまいます 

お客との会食が早く終わったので、いつもよりとても早い帰宅でした。

先日から気になっている「犬の眼(がん)付け」のことを書きたいと思います。

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これは我が家の犬みたいな人、名前をバルザックと言います。恥ずかしいので後ろ姿になっています。尾長鶏でもないのに尻尾が箒のようになっていて、散歩に行くと落ち葉とか道に落ちている様々なものを集める機械のようになります。

そう、そういうことを言いたかったわけではありません。

「犬に二心無し」とか「忠犬ハチ公」という言葉通り、犬は目上の存在に忠実です。どんなに損だと思ってもそう決めてしまったらそうします。猫の現実性に比べれば遥かに“アホ”で“一途”で、だから可愛いです。

たぶん僕のことを主人で、目上の人を思ってくれています。滅多に餌もやらないし。自分が寝る時間より遅く帰ってくるのに、目上の人だと思っています。これはある意味不思議なことなんです。

で、たまにこの愚息(そうバルザックはその名前のとおり「彼」です)とにらめっこをすることがあります。思いっきり愛情を込めていますが、そういう時は大概酔っぱらっています。とにかく息子に思いを込めて挑戦するような目で彼の眼を見ると、必ず視線を外します。

こっちがいい加減な気持ち(つまり酔っていないということ)で漠然と彼の眼を見ているときには、その二心のない潤んだ眼で見返してくれるのに、です。

これは何なんだろうと気がかりでした。

で、最近思ったのは、これは人間でも上下関係を重視する世界とか、アウトローの方々とかが行う習性にそっくりであるという事です。

おそらく、旧石器時代あたりまでの人類も犬と同じ習性を維持していたと思います。でも現代ではそのことがいろんな都合のよい“理念”とか、“思想”というような“誤魔化せるまがいもの”のせいで薄れてきてしまっているのではないかと思うわけです。

要するに、動物としての当たり前の行動が今でも残っていて、それを正直に行動に移せる世界と言うのはメインストリームを外れたマイノリティーの世界になってしまっている、ということです。

だから人間も元は正直な動物なんです、ということを言いたいのです。

バルザック君からそのことを教えられ、その理由にハタと気がついた訳です。二心なき世界に僕は少し照れていますが・・・

そうです、今日は早く寝られそう。幸せですね。

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Posted on 2012/09/18 Tue. 21:43    TB: 0    CM: 0

デパートビジネスの成功例 

今日はちょっと買いたいものがあって、久しぶりに新宿まで出かけました。中央線沿線に住んでいた学生時代や、小田急線の経堂に住んでいた若かりし頃はどちらかと言えば新宿がテリトリーでしたが、その後自宅や職場が遠くなって以来どちらかと言えば疎遠になっていました。

訪ねたのは伊勢丹のメンズ館というところです。最近は余り新しい物を買うこともなくなっています。物を増やすことに抵抗があるような気がしていることと、なかなか欲しいものに出会えなくなっていることが理由だと思います。

元来人ごみは苦手だし、また腰が悪いので長く立っているのが苦痛ということもあり、特にデパートは敬遠していました。でも伊勢丹のメンズ館というのは噂に聞いていて一度訪ねてみたいと思っていました。今日は、この秋にかけていろいろイベントがあるので思いきって行ってみたという次第です。

朝早く出たら早めに帰宅でき、一日がつぶれないだろうと思い午前のうちに出ました。しかし、結局帰宅は夕方になってしまいました。

このデパートは明らかに成功しているなあと思いました。充実した品揃え、値段と年齢の幅、ニーズの多様性に対応しながら売り場の雰囲気も含めた全体のトーナリティーの確かさ。ビジネスがうまく行っていると言うのはこういう事なんだろうと勉強になりました。

しかし今日ブログにこの事を書こうとした最大の理由は、このデパートのスタッフの質に感心したからです。

人ごみが嫌いで、腰が痛くなって、新しい物がそんなに欲しくないのに、長居をしてしまったのはつい気持が良くなったからだと思います。鞄や靴売り場の男性店員の知識、気配りのレベル、最後に道案内してくれた女性スタッフの淡泊なのに必要情報を効率よく教えてくれたそのセンス。しかも何人にも接したのに外れがなかった。

言うまでもないことですがサービスビジネスの根幹は「人」でしょう。ビジネスは結局そうなんでしょうが特にエンド客と直接接する小売のようなビジネスは。活気がある職場の中で一人ひとりがその職場に居る姿勢を意味づけられているような感じがしました。話の拡がり方、細かいところでの提案力、さりげなく行う自己主張。まあ僕と波長があったのだと思いますが、思いの他感心してつい急ぎでもない物まで買ってしまいました。

小売の世界でデパートの凋落が言われてもう随分長い時間が経ちました。デフレ環境の中で有効な投資コストが何なのかを探しあぐねているうちに、ユニクロやコンビニに小売のメインゾーンをさらわれたという思いがしていました。

きっと「デパート」にはある種のテーマパーク性が許され、このメンズ館の場合、鞄や靴や衣類などから派生して様々な男心をくすぐる物的空間を創造できる場があることに積極的に気付いたのだと思います。ある種の男文化というものを掘り下げる努力と、店員の気配りや知識という人的派生商材をレベルアップしてリピーター客をしっかりつかんでいるというところなのでしょう。

それに乗らされた後悔があるものの、また再訪したくなる気持に心地よさを感じています。

今の自分のビジネスにも参考になる多くの示唆を得た一日でした。

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Posted on 2012/09/17 Mon. 23:09    TB: 0    CM: 0

尖閣問題に思う 

今日は少しゆとりがあった一日でした。そのせいか何か充実していない一日であったかも。

で、何を書き込もうかと思って机に座りましたが、やはり中国人の反日暴動に興味が向いてしまっていて、そのことについて書くことにしました。

10年少し前頃、勤めていた会社の仕事で事務所の立ち上げや営業活動のため、多いときは月4回も上海・蘇州・北京などに出張していた時期が2~3年ありました。中国人はとてもシンプルな国民だと言うのが当時の僕の感想でした。

喜怒哀楽がはっきりしていて、物事にストレートです。持って回った考え方をしたり日本人のような遠慮をしたりすることは無さそうに思ったものです。

それと今はインターネットが発達しているので違うかも知れませんが、自分たちを外から見る材料としての知識が少なく、客観的に物事を見る訓練ができていない。疑うことをしない。

でも(だからと言うべきか?)「偽善」がなく、正直に思ったことに従って行動することができる分、好もしさを感じる友人も多かった。むしろ日本人の“いやらしさ”に思いが行くことさえありました。しかし彼らと仕事をするのは難しかった。

今回の暴動を見て最も感じるのは、「教育」の恐ろしさとか、中国人にとっての学校教育の位置づけという事です。刷り込みの怖さです。暴動に参加しているのは10代や20代で、それは尖閣を領土と言い始めた時期とそこからの教育という事実と一致します。

教育は個々の国民をどういう風に作り上げていくのか考えたとき、決定的に重要な役割を担っています。

そしてこのような元々の国民性を考えてみると、今の一党独裁の政治体制はむしろ必然であり、マッチしているし、敢えて言えばやはりそういう国民が作ることができる唯一の体制が一党独裁ということかも知れないとも思うわけです。それは毛沢東時代に出来上がった近代的な中国と言っても良いけど、本当に形だけでもあれだけの国土を統一するためにはイデオロギーが必要であったという言い方もできます。もっと言えばだから国民を政治に利用できているし、それが最も効率の良い方法だった。教育というのは最も時間がかかるが最も確実な方法です。でもそれを作りえたのもその国民性ゆえと言う事になります。でもそれを修正するのはもっと大変です。その必要があれば、ということですけど。

かの国との間に存在する「海」の大きさを考え本当にため息が出るような気持になります。

個々の個性とか、個々に意見を持っているという事がそもそも有りうるのか、考えなければならないけど、少なくとも”あからさま”にそれを利用することができているうちは、一定以上の民度を持った先進国とは言えないでしょう。

国の経済力とか国際社会での存在感とかにもいろいろあるけど、結局は尊敬される部分がなければそれらを誇る資格はないと思います。GDPが世界2位と言う事が持つ本質的な問題を思います。日本の国力とはでは何なのか、同じように考えなければいけないでしょう。

東北の震災で示した日本人の行動。それを美徳と呼ぶなら、今回の尖閣にみる中国という国家とその国民に対して、日本と言う「国家」は一体どういう形を持ってこれを受け止めたら良いのか。納得行く対処方法が何なのか考えるとても良い機会を提供してくれているのかも知れません。日本という国家や日本人という国民はいるのでしょうか?

でも国の意思と言うのはそもそも一体何なんでしょうね。その決定者というのは誰なんでしょう。中国だけではありません。政治体制の問題でもなさそうに思います。

教育の中身を決めるのは誰であるべきなんでしょう。考えさせられます。

硬い話になってしまいました。

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Posted on 2012/09/16 Sun. 23:41    TB: 0    CM: 0

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