大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの社長をしている 大谷光彦のブログです。

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新年を迎えて一陽来復 

穴八幡宮に行ってお守りを手に入れてきました。自分で行ったのは今回が初めてです。

穴八幡は家業繁栄とか金運にご利益があるとかで、その筋の方(笑)は毎年参拝されるそうです。家内が参加しているサークルの仲間から何年か前に誘われ、最近年中行事になっています。一種の方位学で運勢と方角を関連づけるもので、冬至か大みそかか節分にその方角に向かってお札を張るとご利益があると言うもの。いわゆる恵方巻きなどと同じ原理(?)です。

神社(と言ってよいのか?)の存在は知っていたのですが中に入ったのは初めてです。いつも行列ができるそうですが、今回はそれほど並ばなくてよかった。

穴八幡  一陽来復

もともと神社には会社で行くくらいで、個人的にはあまり縁がありませんでした。
考え過ぎでしょうが、金運アップと言われると宝くじを買うみたいで、あまりにストレートで照れてしまいます。でもそれもある種のウソで、結局人間はそういう欲からは逃れなれない存在で、照れると言うのも格好つけているだけだとある時気付いて素直になれました。

海外にいるとき何度か“「神道」は宗教か?“という質問にうまく答えられなかったものです。
そう、キリスト教のような一神教はYesとNoが明確で、許されると許されないという境界が厳格です。今はやり(?)のイスラム国家なんかのイスラム教も、イスラエルのユダヤ教も同じです。だから一緒に2つ以上の神に忠誠を誓うことはできないので、互いに仲が悪い。大げさに言えば9.11から始まる一連の衝突にはこういう背景があります。

でも神社というのは違う。「神」ではなく「カミ」だからと言うけど、一神教を宗教と言うなら神道は宗教とは言えない。靖国の問題とも繋がってくるので話は込みいりますが、、、

まあ、東南アジアなんかにも多いけど、とにかく〝こっちのカミさん”は総じておおらかである。

僕は幼児洗礼のカトリックなので、この辺りのことは自分で整理をしておかないと上手く生きていけないとずっと思っていました。学生時代に鎌倉の建長寺に頼み込んで1カ月寝泊まりしましたが、この辺りのことに関係します。結局1カ月で逃げ出しましたが、その時、禅宗という古い宗教の持つ懐の深さを理解できたような気がしたし、バチカンに(旅行で)行ったときも、イタリア人にとってのキリスト教の〝表面いい加減”さも好ましいと思いました。

この種のおおらかさを理解すると自分が日本人であることと矛盾しない心境に至れるようになったように思います。
つまり必ずしも一神教かどうかではない、、

歴史の中で生活の一部になっていくと「おおらか」になるのかなあ・・ でもイスラム国家はなぜおおらかではないのか。
きっと無理があるんだろうなあ、と。

話がそれてしまいました。
あと数時間で2014年も終わりますね。そう言えば先日総集編をやっていましたが、HNKの好きな番組に「ドキュメント72時間」と言うのがあります。人の日常は普通に必死なんですよね。いつも深く考えさせられますが、日本人にとっての〝神頼み”のおおらかさは必死さと矛盾はしないんですね。きっと。

来年も健康でありたいし、お金に苦労したくはないですね。そんな普通の願いを普通に大切にして今夜お札を壁に張ります。

皆さんも福の多いすばらしい新年をお迎えください。
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Posted on 2014/12/31 Wed. 15:40    TB: 0    CM: 0

物で持っている思い出を未練という 

1カ月休んでしまいました。
このブログを見て頂いていた方、申し訳ございませんでした。

ちょっと家族が病気になったり、自分も本当に久しぶりに風邪をひいてしまったりで、特に師走に入っては仕事も休めず慌ただしく過ごしていました。

休みに入って、今日は久しぶりの落ち着いた日。机に座りブログに手を伸ばしました。

先日休みに入ってすぐ倉庫の整理をしました。この10年間、多忙を理由に整理もしないで入れっぱなしになっていた貸倉庫です。実現したのは息子夫婦が手伝ってくれることになったからです。若い人がいなければなかなか思い切ってああ言う力仕事はできない。大助かりで、半分くらいにできました。その日に市の〝クリーンセンター″に持って行って全部処分です。まるでブルドーザーを借りてきたみたいで感謝感謝。

しかしその処分したものと言ったら。マレーシアの原住民の吹き矢、アンティークではあるがそれほどレアものでもない柱時計、学生時代に月賦で買ったアンプやチューナー、昔の本やノート、駐在員時代の机の上の置物、サンフランシスコの市街地図、戦闘機の模型等々・・・ どうみても僕のノスタルジー以外なんら保存動機が存在しないものの多いこと!

まあ実用品とか経済的価値の高いものは、自分とは切り離されて、“その価値がある限り“、と言うより〝その保管コストと見合う限り″置いてもらえるのでしょうが、こういう趣味のものの手放し時は実に難しい。

それを手に入れたとき自分が息をしていた空気・音・匂い・感じたこと。そう言った、その時を切り取ったようなもの全てがその中に存在しているからです。

よく、「心の中にあれば良い」と格好よく言う人がいますね。そう思える人が実に羨ましいです。
物で持っている思い出のことを「未練」というのかもしれない。

マレーシア時代のものなんか、帰国時にそのまま実家に送って一つの部屋を占領。まるで博物館です。
でも、あの時は、将来それらに囲まれて思い出にふけることができる生活が〝あるかもしれない″と、未来の自分を過大評価していたのです。当然実家からはクレーム。10年前にこっちに持ってきて、そのまま貸倉庫。維持コストも馬鹿になりません。

まあそんな事で頑張ったんだけど、結局日の目を見なかった。これらの物たちに申し訳ないと言う気持です。

結局、知識とか旅行の思い出とか、なんかそう言った最初から再現性のない空気のようなものは、非常に個人的なものだし他人に伝えることがそもそもできないものとわかるけど、このように手に触れられるものは、つい自分以外の人にとっても楽しんでくれるものではないかという誤解を生みやすい。

でも今回わかったのは、僕以外だれも、“楽しんで“くれる雰囲気ではなかったと言うことです。誤解も自分中心の都合のよい誤解だったと言うわけです。こういうものを取っておきたい心境と言うのは、「未来に自分の時間がある」という感覚ではないかと思うのです。一定の歳をとるとその現実が解ってくる。自分の親も同じことを思ったんだろうなあ、とか。

きっと自分の中で、昔の自分に会いたい気持。小さかったときの自分の子供や若かったころの伴侶に出会いたい気持。
そんなものも、自分の未来の時が確かにならないと思い始めると、本当に薄れていく記憶の中だけのものに自然になって行くんだろうなと。

そんな中で、まあ取っていくことに、″今のところ″賛同が得られたものの逸品を「過去の自己満足」の遺物として紹介します。 (まあ、これもあと何年手に触れられるか心もとない限りですが・・・)

蓄音器2 レコード針 レコード
蓄音器1
(戦前のイギリスGramophone社製の蓄音機。まだHis Master Voiceがビクターの商標ではない時代。レコードも数枚あり、
これが実に暖かい癒される音がする・・・まだまだ現役)








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Posted on 2014/12/30 Tue. 15:18    TB: 0    CM: 0

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