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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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人が人を裁く意味と民主主義の怖さ 

法務省が東京拘置所の死刑執行場をマスコミに公開したそうです。千葉法務大臣が死刑の是非に関する”国民的議論”を促すために命じたとか。


そもそもあまり話題にしたくないテーマだし、考えれば考えるほど難しい問題です。人が法の名の下に人の命を奪うことを認めるのかということです。


「人」が意図をもって命を操作する形式には殺人と自殺があります。普通、自分の命は自分のもので、他人の命はその人のものだと考えますから、親子であろうが夫婦であろうが、殺人は自分の命ではないのにそれを奪うこと、と定義してもよいでしょう。そしてそれが法的に許される場合は戦争による殺りくと死刑です。


戦争が”許される殺人か”というのはまた難しい話ですが、事実として国際法では禁じていません。


従って、「法的」に許されているという意味では、死刑と戦争による殺人は同じことかもしれません。


”戦争反対”というのは簡単ですが、戦争体験者とそうでない人の言葉の重さには差があります。死刑反対というのも同じように、被害者の家族とそうでない人では圧倒的にその意味することの重大さは違うでしょう。


”人は進歩するのか”とか、”進歩とは何か”というのは個人的な哲学や倫理の視点でしか語れません。


僕は、”人の本質は昔も今もそして未来も変わらない”と考えています。知識や経験や立場で変わったように見えるけど、根っこのところは変わらない。つねに他人に優しくありたいと思いながら信じられない残酷仕打ちを平気でしてしまう。厭なやつでも信じられない善行をすることもある。悪魔は天使がなったものだとキリスト教では教えています。


しかしながら、少なくとも”考えたくない”というのは許されないのだろうと思います。そういう意味でこの公開は意味のあることでしょう。裁判員裁判とは法によって人が人を裁くことに参加することで、その極限の世界が死刑判決の言い渡しです。そして裁判員制度はもう始まっていてかなりの経験者を生んでいるからです。


でも難しい。自分の中で「当事者」と「非当事者」の両方の声がします。想像力の限界とその不純さに悩んでしまいます。


だから、この公開の目的が、「国民的議論」のためという言葉の”偽善”と、それによって安心してしまいたい”弱さ”と、それを「法的」に可能にしてしまう”民主主義”の怖さを思います。




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Posted on 2010/08/28 Sat. 13:57    TB: 0    CM: 0

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