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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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死の意味 

この連休前の金曜日に久しぶりの友達(と言うのは少し失礼かもしれない先輩ですが)と飲みました。丸の内のブリックスクエアーのレストラン。結構おいしかったのでまた行こうと思っています。

そこで考えたことですが、今日は「人の死」について書こうと思います。

「死」と言う文字は多くの“元気”な人にとってあまり見たくない文字だと思います。僕もそうです。

この友人の奥さんが亡くなっていたんです。僕は知りませんでした。

そういう事をすぐ知らせる人が多い中、傷が深いとすぐ知らせれないこともあると言うことからの“気付き”です。今日はそういう事を少し書きたいと思います。

以前にも少し書きました。これは南直哉の至言から啓発された世界観ですが、人の死には3つの種類があると。

自分の死は所詮自分が生きている間に頭で考えること。だから死んでしまった自分はもう其れを考えることをしないし、出来ない。だからそれは「どうでも良い死」。

他人の死は新聞が毎日報道することだし、自分の何物にも影響を与えない死。例えばそれが有名人であったとしても、自分が会ったこともないのに良く知っている人の死のように感じているだけ。敢えて言えば単なる他人の不幸を味わっている快感かも知れない。これも、要するに「どうでも良い死」。

問題は自分の心の中で大きな位置を占めている“知っている人”の死です。

死と言うのは避けようもな生物的かつ物理的現象ですが、自分というものを省みなければならないリアルな世界の中では、“ある人”の死は“自分の死”以上に“自分の死”なのです。

そう、「ロス」という言葉で表すしかない「喪失感」です。宗教や心理学が存在するのはこの「ロス」あるいは「ロスト」という世界があるからです。

例えば自分の子供の死、親の死、そして“伴侶の死”。とりわけ人生の長い時間に起こった事を共有した伴侶の死。これは結構リアルな死だと思うし、本当の死とはそういう形でしか自分の人生の中に存在しないのです。

この先輩の中に彼女は生きていて、それ以外に彼女が生きているということはあり得ない。死が無機質であると同時に後に残された者にとっては自分が自分の死を遂げるまでそれが最もリアルな死なのです。皮肉なことに!

そういう人の死は他人が語ってはいけない死なんでしょう。その人にとってだけ存在する固有の死。“世界に一つだけ”の死。そして“残された人にだけ意味のある死”

そんな事を語りながら帰ってきたら、かみさんが泣いていました。

話を聞くと、中学時代からの親友の娘さんが突然死で目の前から居なくなってしまったという。それを1年以上伝えなかったその親友の話を長い時間かけて聞いていたからと。

偶然でしょうが僕の友人の伴侶の死と“僕の伴侶”の親友の子供の死。

限りなく違う死なのに限りなく近い“リアルな死”。

少し考え、もっと考え、考えることに健全に疲れ、死を考える不遜を考える。
今日はそんな夜でした。

お休みなさい。明日の朝きっといつものように目覚めますように。



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カテゴリ: プライベートブログ

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Posted on 2013/02/10 Sun. 23:32    TB: 0    CM: 1

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