小林麻央さんにみる命と死のこと
小林麻央さんが亡くなったニュース。
いろんなことを考えさせられました。
あれだけ連日ブログで体調や心の動きが発信された有名人の死というのはあまりなかったような気がします。
報道によると200万人以上のフォロワーがいたとか。言葉は適切ではないけれど、まるで実況中継されていたような闘病生活でした。その一挙手一投足に多くの人が一喜一憂し、一緒に祈っている、“彼女の日常の共有”を感じました。
皆の(「国民の」と言い換えても良いくらい大勢の)願いと祈りも虚しく残念な結果になってしまいましたが、多くの人に勇気と、また命について深く考える切っ掛けを改めて与えてくれたように思います。市川海老蔵さんの会見で感じたことですが、死を覚悟した先に、常に周りの人に”与える側”になり続けた人。菩薩のように慈悲の心を多くの人に届けたと言うか、とにかく残された家族に刻まれたとても格好いい「往き方」と言うか、そんな人だったように思います。
もうひとつ感じたことは、ひとりで死んでいって、その死を人に知られないような、いわゆる『孤独死』との対比です。人は所詮ひとりで死んでいく運命にありますが、周りに人が居て、ましてや多くの国民に心配されながら命を落とす麻央さんのようなケースと比べてみると、本当に今回、SNSの役割の凄さと言うか、そんなものも思いました。トランプと比較するのは不謹慎ですが、死まで実況してしまうような、少し怖さすら感じる現象をです。
死が身近になると言う事とは違いますが、ある種の劇場型の死と言いますか、、、死とプライバシーという問題につながるもう一つの問題のことも考えました。これからこういう、ある意味「シェアーされる死」という現象がテクノロジーの発達で抵抗なく繰り広げられる時代がそこまで来ているのかも知れませんね。
昔読んだ「南直哉(じきさい)」の本に、”死には3種類ある”という言葉があったのをまた思い出しました。もう死んだあとは自覚できない「自らの死」、そして毎日ニュースで繰り広げられる「他人の死」。この2つの死はその人の死生観や宗教心に影響は与えても、やはり人生の中で大きな意味を持つ死ではない。その人にとって一番重要なのは「近しい人の死」である、という意味の文章です。
麻央さんの死は、残された家族にとってはもちろん身近な人の死ですが、実は多くの人にとっても「他人の死」ではなかったかも知れない。他人と身近な人を近づける手段にSNSがなっていたとしたら、それは新たな死との距離感なのかも知れないと。
僕にとっても「他人の死」を超えた何かを残してくれました。心よりご冥福をお祈り致します。
いろんなことを考えさせられました。
あれだけ連日ブログで体調や心の動きが発信された有名人の死というのはあまりなかったような気がします。
報道によると200万人以上のフォロワーがいたとか。言葉は適切ではないけれど、まるで実況中継されていたような闘病生活でした。その一挙手一投足に多くの人が一喜一憂し、一緒に祈っている、“彼女の日常の共有”を感じました。
皆の(「国民の」と言い換えても良いくらい大勢の)願いと祈りも虚しく残念な結果になってしまいましたが、多くの人に勇気と、また命について深く考える切っ掛けを改めて与えてくれたように思います。市川海老蔵さんの会見で感じたことですが、死を覚悟した先に、常に周りの人に”与える側”になり続けた人。菩薩のように慈悲の心を多くの人に届けたと言うか、とにかく残された家族に刻まれたとても格好いい「往き方」と言うか、そんな人だったように思います。
もうひとつ感じたことは、ひとりで死んでいって、その死を人に知られないような、いわゆる『孤独死』との対比です。人は所詮ひとりで死んでいく運命にありますが、周りに人が居て、ましてや多くの国民に心配されながら命を落とす麻央さんのようなケースと比べてみると、本当に今回、SNSの役割の凄さと言うか、そんなものも思いました。トランプと比較するのは不謹慎ですが、死まで実況してしまうような、少し怖さすら感じる現象をです。
死が身近になると言う事とは違いますが、ある種の劇場型の死と言いますか、、、死とプライバシーという問題につながるもう一つの問題のことも考えました。これからこういう、ある意味「シェアーされる死」という現象がテクノロジーの発達で抵抗なく繰り広げられる時代がそこまで来ているのかも知れませんね。
昔読んだ「南直哉(じきさい)」の本に、”死には3種類ある”という言葉があったのをまた思い出しました。もう死んだあとは自覚できない「自らの死」、そして毎日ニュースで繰り広げられる「他人の死」。この2つの死はその人の死生観や宗教心に影響は与えても、やはり人生の中で大きな意味を持つ死ではない。その人にとって一番重要なのは「近しい人の死」である、という意味の文章です。
麻央さんの死は、残された家族にとってはもちろん身近な人の死ですが、実は多くの人にとっても「他人の死」ではなかったかも知れない。他人と身近な人を近づける手段にSNSがなっていたとしたら、それは新たな死との距離感なのかも知れないと。
僕にとっても「他人の死」を超えた何かを残してくれました。心よりご冥福をお祈り致します。
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