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大谷光彦のブログ

一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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自分の中にある差別 〜Black Lives Matter〜 

「Black Lives Matter」というキーワードで人種差別反対のデモが世界に拡がっていますね。アメリカの白人警察官による黒人への過剰な行動による死が原因ですが、アメリカでは今回が初めてではなく何度も起こっている事件です。白人警察の黒人取締行為の過剰さが目立っているのは事実です。

もう25年くらい前の話になりますが、僕がサンフランシスコにいた時にちょっとした差別だと思うようなことを2度ほど経験しました。そうかなあ、と思ったことはもっとあるのですが、どうみてもこれはアジア人に対する差別じゃあないかと思ったことがありました。

最初の記憶は、何度も確認して窓際の良い席を予約したはずなのに、理由が理解できないままそのテーブルに案内されなかったこと。案内役の白人の何とも言えない態度を今も覚えています。高級を自認しているようなレストランのいくつかは、そういう差別をしても許されるという様な空気というか一種の白人文化を持っていたように思います。

もう一つの記憶は、お客さんを後ろに乗せて一流ホテルに行った時のこと。Valet Parkingという、車の鍵をボーイに預けたら彼が駐車場に運んでくれるサービスがありますが、前と後ろに白人の運転する車があったところ、僕を飛び越して後ろの車の方を先に案内されたのです。この時のボーイは黒人でした。

僕はどうみても黒人はないのでこれは非白人への差別です。しかし黒人が差別の主体になることもない訳ではないのです。

公民権法が1964年に制定されても奴隷制度の記憶が底辺にあり、貧困から教育の不平等が生まれ、それは次の世代に継承され易い。黒人だからという優遇制度でもない限り黒人の劣勢は再生産されがち。この背景には特に貧困で教育の低い黒人への刷り込まれた蔑視意識がステレオタイプとして存在しているからだと思います。オバマ前大統領が黒人として初めての大統領になっても修正できなかったハンディキャップが存在するのも事実です。
これは形式的には憲法で保障された平等には直接抵触していない。故に例えばマレーシアのブピプトラ政策のような積極的優遇制度を作らない限りいつまでも続くと思います。しかしアメリカはそれをしない国だと思います。それ自体が平等ではないという論理で。

今回のアメリカの話は黒人の話ですが、僕が体験したのは黄色人種であるアジア人に対しての差別だと思います。そもそも人はなぜ差別をするのか、ということを考えなければならないと思うのです。日本においてもいろんな形で昔からこのような差別は存在しています。世界のどこでも存在しています。豊かになって余裕ができて、教育を受けて、知識ができれば減ると考えられてはいますが、「いじめ」のように形を変えたものやSNSなどによる顔を出さない差別は一段とひどくなっています。最近の女子プロレスラーの自殺やタレントなどへの誹謗中傷という言葉の暴力も同じ根っこの話だと思います。スマホひとつで殺せるので指殺人とも呼ぶみたいですね。

話は少し大げさにはなりますが、猿などの動物を見ていたらわかることですが、自分より劣るものを敢えて探したり、勝てない相手には従順な態度をとって自分の利益を守ることもします。常に自分の位置を確認して、できるだけ上の位置にいると思っていたいという優越志向本能があります。それは動物が生きていく上で自然に備わった能力です。こいつには敵わないと思えば媚を売ったりして自分の存在を否定されないような“保険をかける”ことをするのは人間社会でも存在する処世術です。

「差別」という概念は人間しか持っていません。それは「平等」という概念から導き出されるわけですが、自由とか平等はフランス革命の前にはそもそも存在していない言葉でした。だから奴隷制度も存在した。安倍首相がよく「自由や平等という人類の普遍的価値観を共有する国」というような表現を使いますが、「普遍的」と言って良いのかなと疑わしい気持ちになります。北朝鮮、中国、アフリカや南米の一部の国々など、共産主義・社会主義・独裁主義の国々ではそういう価値観は為政者の邪魔になるので排除されます。そういう意味ではそもそも「普遍」ではなく「我々の価値観」でしかない。だから「内政干渉」と言って拒否されるわけです。
話が逸れましたが、人種差別というのは社会的現象として言うことばで、同じように容姿や障害や貧富や能力や体力などでの差別はそこかしこに存在しています。それを禁ずる法律を作ったら一見目に見えなくなるだけです。それは動物としての人間の本能に根差しているから当然です。

僕は、「だからどうしようもない」と言っている訳ではありません。あたかも差別が「不正義」だからやめろ、と言って済む問題ではないということを前提に、考え行動を起こさなければならないと思っているだけです。

社会現象としての差別には法律というルールで対処する方法があります。それが逆差別になると反対の不平等運動が起こることも避けつつ、極端な事例を防止するという範囲の話になるでしょう。今回のアメリカの警察組織の改編などもそのひとつでしょうし、会社や行政における差別禁止の法律などがこれに該当します。しかしこれも範囲が難しい。例えばLGBTなどの扱いは国によってまだ大きく異なっています。それは国民のコンセンサスが違うからです。

でも一番厄介な問題は、「心の中の差別」です。これはルール上の防止策では対処できないことです。解決が難しい問題ですが、これには教育しかないと思っています。大人に対しては「啓発」ということになり、子供に対しては学校と家庭の「教育」です。

汚い、醜い、貧しい、遅い、喧しい、臭い、生意気、不親切、など無数のネガティブな言葉がありますね。逆に、美しい、賢い、格好い、金持ち、早い、謙虚、優しい、親切、など無数の褒め言葉もあります。発言や対応するとき、人は自然にその事象に対して生理的な心の動きが生じます。あの様にはなりたくない人、あの様になりたいと思う人、その気持ちを否定できませんよね。そのどこまでを差別と言うのでしょう。

中国のウイグル族やミャンマーのロヒンギャへの迫害、トルコのグルド人や多くの国の少数民族への施策。これらは政治的な現象でもありますが、「人の行い」の本質に根差しています。そしてこれらが日本で取り上げられることは殆どありません。
マリアテレサはなぜ聖人と言われるのでしょうか。その当然多くの人が持っている差別意識を超えた奉仕活動と犠牲的な行動ができたと言われているからです。それを可能にしたのは「宗教」です。でも世界中でまさにこの「宗教」の違いによる迫害や戦争が今でも起こっています。

宗教にも「社会的な位置づけ」と「心の中の問題」という2面性を持っています。それは差別の解決方法のひとつでありながら、また差別の原因でもあり、紛争の元でもある。

本当に「人」と「人の作る社会」とそれらの「営み」とそれが生み出す様々な「問題」は簡単なことではありません。必ず両面があります。黒人のやることは全て正しいわけでもない。白人のやることに誠意や自愛がない訳でもない。

人は極端に走ってはいけない。どちらかが正しくてもう一方は常に悪いわけではない。いつも優れているわけではない、いつも間違いばかりではない。
他人を救うことがあれば他人を殺してしまうこともある。

毎日膨大な事件が起き、メディアもその一部しか報道しない。またその情報が常に客観的な事実かどうかもわからない。自分で情報に接し、自分でなるべく公平に考えいてみる。自分にできることは何か。自分が守るべきものは何なのか。

この新型コロナの大変な中での人種差別の問題。大変な日々に人類は直面していますね。僕も4月と5月はほぼ全ての仕事が無くなりました。これを禍とするのは簡単ですが、それでは学びがない。どうこれから何を生み、この体験から何を学ぶか。

自分を見つめる機会にしたいと思っています。
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カテゴリ: プライベートブログ

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Posted on 2020/06/16 Tue. 14:33    TB: 0    CM: 0

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