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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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建物の中に在った「自分」 

この連休を利用して久し振りに郷里の尾道に帰省した。両親も高齢で、少しでも顔を見せておきたいというのが主目的であったが、丁度そのタイミングで、尾道のカトリック教会の新築オープニング(献堂式という)のがあって、出来たら出席しようという思いもあったからである。

前にも書いたが、僕が慣れ親しんでいた教会というのは、日本家屋を使った畳の聖堂で、隠れキリシタンではないが、そこかしこに“日本文化”が息づいている場所であった。予想していた通りに出来上がっていた新しい教会は、紛れもない外国の教会であった。内装に白木を使ったりして、一見日本風にしてはいたが、グアムかハワイのホテルの中に出来た結婚式場風というか・・・まあそんなものであった。思った以上にがっかりしてしまった。

日本人にとってのカトリシズムには、昔からこだわりがあった。学生時代に建長寺に入ったのも、遠藤周作に凝ったのも、そういうことが底辺にあったからであろう。しかし、今回感じたことは、実はそのことより、もう時代が変わってしまったという感慨だった。今その教会の中心になっている方々の多くを、もう僕は知らない。当然、かなり前からだけれど、建物がまったく変わったことで、強烈に顕在化してしまった。それが誤魔化しようのない事実になってしまったということ。

自分というものは、ある部分、それを少なくとも「記憶」で共有する人々がいる間存在する。僕にも家族が居て、友人がいるが、「僕」の存在というものは、彼らの記憶の中に存在しなくなったらもう存在しない人になるんだと。でも例えば家というような建物があるとその記憶の風化が少し遅れたり、あるいはその断片みたいなものがひょっとしてその建物の柱の間なんかに少し残っていて、ひょんなことで話題になったりする可能性もあるのではないか。

つまり建物に限らず、その人にまつわる「物」が残っていることで、思い出される度合いとか、時間の量がちがうかもしれないということ。当たり前のことだけど、そのことを失った建物で思い出した。まったく昔の建物の痕跡をとどめない結婚式場に、僕はもうどこにも残っていなかった。「郷里とは」、「過去の日々とは」、「日本における西洋の宗教って」とか、そんなもんには覚悟して行ったが、“記憶と自分の存在”という問題が一番重くのしかかるとは思っていなかった。

連休の民族大移動の混雑の中で、旅の疲れをどっと感じた3日間であった。
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カテゴリ: 社長ブログ

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Posted on 2008/05/16 Fri. 11:59    TB: 0    CM: 0

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