FC2ブログ

大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

11« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»01
 

終戦と親父 〜戦争と体罰とヒューマニティー〜 

今日は終戦記念日ですね。広島生まれの僕にとってこの終戦の日と8月6日の広島への原爆投下の日は子供の頃から少し特別な意味をもつ日でした。それは父親が上官の規律違反の出撃中止命令で命を救われた特攻隊の生き残りであり、原爆投下直後に広島に入った話など幼い頃から何度も聞いていたからです。

僕はもう20年以上前になりますが、広島に原爆を落とした爆撃機「エロナゲイ」が飛び立ったという北マリアナ諸島にある「テニアン島」に行ったことがあります。あのサイパン島のすぐ南です。草茫々の中にその滑走路がありました。日本本土の空襲のためBー29が幾度も飛び立った滑走路です。

父親のことはかなり前にブログにも少し書いたと思いますが、この9月で91歳になる父親は74年前の今日17歳でした。特攻出撃の直前、突然覚悟していた死から解放されその後生き方を見失って茫然自失。結局ドイツ人の神父さんとの出会いで救われ、今深い信仰に支えられて長寿の人生を送っています。

先日帰省したとき、この終戦から広島入りするまでの話をインタビューして録音してきました。もう二度と聞けない話ばかりだと思って。そのとき親父が書いたある記事を見つけ写真をとりました。出撃直前で命を繋いだ話と、教師時代に体罰をしなかったという親父の考えの原点がどこにあったかという話。

平和な今、体罰はいけないと教育現場で当たり前のように言う時代になりましたが、もっと深くその意味を考えさせられる話です。戦争は駄目、二度としない、平和を守る。毎年8月になるとこんな掛け声が巷に溢れます。でも、どうしたら平和が守れるのか、どうしたら戦争をしない日本になるのか。僕たちにできることは何なのか、ひとりひとりがその方法を冷静に考えていかなければ、それは単なる机上の希望の弁にしかなりません。また同じことが繰り返されないと誰が言えるのか。先ほどNHKで二・二六事件のことをやっていました。勇ましさとか思想とか、そういうものの奥にある人間の危なっかしさや、誰の心の中にも宿っている”群れて暴走するエネルギー“など、自分の恐ろしさや脆い優しさなどに思いを致す今日でした。

字が見えにくい写真ですが、できたら読んでみてください。「戦争を知らない子供たち」という歌がありましたね。学生の頃よく歌った反戦歌です。今考えるとあの歌詞は何と浅薄な意味なんだろうと恥ずかしくなります。でもあの歌が歌えるということそのものが、まさしく「戦争を知らない」ということなんだろうと思います。そう、僕はこの文章で、父親を通してもう一度あの戦争のことを考えました。そして同時に一度も父親から殴られたことのない理由もこの記事で初めて知りました。

IMG_2228.jpegIMG_2229.jpegIMG_2230.jpegIMG_2232.jpeg



スポンサーサイト



カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/08/15 Thu. 22:55    TB: 0    CM: 0

大草原の小さな家 

40年ほど前にTVでやっていた「大草原の小さな家」という番組を知っている人は多いと思います。最近このシリーズをNHKのBSでやっていることを発見しました。昔20代の頃好きでよく見ていましたが、素直に随分上質な番組だなあと思っていました。ただ、一方ではW.A.S.P.(White Anglo-Saxon Protestant)的な基盤の上で展開されるストーリーであり、白人とピューリタンを中心とした価値観から出ていない番組でもあると思っていました。その分少しハスに構えて見ていたかも知れません。若かったからということもあるにしろどこか鼻についていたような記憶があります。
あれから僕もアメリカに住み、白人の奢りや移民の過剰な権利主張、自分に向けられた黄色人種への差別などを経験して、益々この綺麗なストーリーをそのまま受け入れられない少し屈折した感情も持つようになっていたと思います。

しかし今、少し歳を重ねた自分がこの番組を見ていると、この原作者が伝えたかった価値観(清貧、勤勉、謙虚、倫理、努力、ひたむきさ、他人への思いやり、学問に対する敬意、罪を憎み人を憎まない性善説等々)がもっとダイレクトに伝わり、とても素直で暖かい気持ちになってきます。
00cc77097bc064c82f5d571fd058f4c1_t.jpg
もちろん今見ても、背景にキリスト教的価値観や白人第一主義という通奏低音が流れています。しかし同時に勤勉で慎ましやかであることを最も尊い価値においていることへの尊敬の念やその価値観の万能性・優越性を感じます。素直に欧米白人キリスト教文化の持っていたレベルの高い民度が伝わってくると言ってもよい。

今トランプがアメリカ人の過半の支持を得ています。背景には白人の過去の栄光へのノスタルジアがあることは間違いがないでしょう。しかし、負け組というコンプレックスを、どこか自分たちの歴史が持っていた清貧さや勤勉さを誇っていた感覚との“すり替え”もあるような気がしています。

せめてWASP的な誇りを取り戻してほしい。そうすると移民への過剰攻撃も“はしたない”と思い、逆に尊敬を受けることになるのではという風にも思うわけです。貧しさを誇って欲しい。移民が貧しさを権利に変えていることを、静かに、そして精神的余裕を持って“いなして”欲しい。

今の白人にもこういう歴史があり、こういう価値観を尊んだ歴史があったことを、教育の中で、政治の中で思い出して欲しい。もう戻れない古き良きアメリカをこの番組で考えてしまいます。

我が日本にも同じことが言えるのでしょうね。日本の古き良き価値観とは何なのでしょうね。

カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/08/10 Sat. 23:23    TB: 0    CM: 0

懐かしいマレーシアの田舎生活〜ベトナム人向け日本語教育テューターに応募して〜 

先月からベトナム人の日本語教育のテューターボランティアというのをやっていたのが終わりました。日越EPA(ベトナムとの経済連携協定)に基づく看護師と介護福祉士候補者の受入スキームによる来日で、今回がすでに第6陣。5月31日入国の217人(男性31名、女性186名)。彼らは来日前にベトナムで12ヶ月の日本語研修を終了して日本語検定試験の初中級N3(一部はより上級の中級N2)に合格して来日しています。来年の国家試験(介護福祉士は3年の実習後受験)に向けて8月から全国の施設でインターンとして働くことになっています。僕が手伝ったのはその日本での日本語研修です。少し今の国際交流や国家施策という視点で日本に入ってくる外国人の実態を知りたくて参加しました。テューターも倍率が3倍の結構狭き門だった様で、希望者が多いことにも驚きました。
ベトナムイメージ4
印象に残ったのは彼らの真剣さ。家族をベトナムに置いてきた人も多く、名札の裏に写真を入れている。将来のチャンス獲得のために、貯金をして背水の陣で来日しているそのバイタリティー。日本のことを一生懸命好きになろうとしている健気さとか、日本語は難しいということや日本食に苦労している様子とともに何より感じたことは彼らの必死さ。

日本にはもう昔のような右肩上がりの経済発展はないかもしれない。でも昔の日本もそうであったように、ベトナムの未来はこれからという機運や希望や誇りをそのまま纏っている若者達。彼らの生き生きとした熱いまなざしと、たどたどしい日本語と沈黙を恐れるようにまくし立てるその勢いに遠い昔の記憶が重なりました。

1980年代から2000年くらいまでの20年間、途中3年ほどアメリカにいましたが一貫して東南アジア中心に仕事をしていました。当時のベトナムにはまだ日本企業のビジネスチャンスが多くなかったのか、ベトナムを含むいわゆるインドシナ3国には行ったことがありません。でもあの高温多湿で香辛料の匂いの混じった空気、ここかしこにあった熱帯雨林、雨になったらぬかるむ道路、自転車や二輪車が中心の人々の移動手段、スコールとその後の停電、つかの間の涼と雨上がりの虹、、彼らと話していて昔自分が徘徊していた東南アジアのことを思い出しました。どの国も発展して、もうあんな世界ではないでしょうね。遠い夢の国になりました。

どうか日本に来るベトナムの若者のその輝きが長く失われませんように!
どうか日本を嫌いになりませんように!

現在少し関係している市民大学で、今度昔住んでいたマレーシアの話をすることになりました。それで、もう何十年も見たことのない昔懐かしい写真アルバムを引っ張り出していろいろ見ています。どの写真も感光紙の時代で、みな色褪せてしまっていますが走馬灯のように当時の記憶と青春の匂いが蘇ってきます。そのいくつかを紹介します。これらは1982年からのマレーシア滞在6年のうち3年半居た山奥の小さな町「Kuala Kangsar」にあった我が家の庭からの眺めです。
KKHouse_0006.jpg KKHouse_0007.jpg KKHouse_0009.jpg
蛇がしょっちゅう出没するので現地の人のアドバイスで飼っていた蛇避けのグース。つがいでなければ生きていけないほどの見上げたガチョウ夫婦でした。目の前はこんな田舎の小さな町には不似合いながらマレーシアで有名な美しいモスク。空気ボールながら思いっきりできる打ちっ放し。
KKHouse_0011.jpg KKHouse_0010.jpg オースティンマイナー
庭に苗から植えたパパイアは3ヶ月でこんなに大きく身をつけてこの1ヶ月後に大きくなり過ぎた自分の実の重さで倒れました。敷地に入ってきたアルマジロと当時4歳の娘(今なんと40歳!)。隣のマレーシア人の友達と。奥さん専用のオースティンマイナー。おそらく1960年くらいのもの。シフトギアが丸くなっていてなかなか入らなくて何度も立ち往生。この街で日本人の僕たちは何かにつけ注目を集めたものです。





カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/07/22 Mon. 22:54    TB: 0    CM: 0

「はやぶさ2」を擬人化できる嬉しさと誇り 〜人々の涙の意味を考える〜 

「はやぶさ2」が「りゅうぐう」への2回目のタッチダウンに成功し、地下にある岩石を採取したことに成功したというニュースが今日報道されました。TVで見ている時、JAXAの科学者たちが歓声を挙げるのにはあまり驚きませんでしたが、一般の人が涙を流しながらその成功を喜んでいる姿に少し心が動かされました。そして何年か前に初代「はやぶさ」が地球に帰還して大気圏で炎に包まれるのを見た時の感動をまた思い出しました。

「はやぶさ2」を自分達の大切な子供のように擬人化して感動している人々の愛情を感じます。5年以上真っ暗な宇宙の果てまで孤独な旅を続け、やっと目的地に到達し、健気に目的を果たしたその姿や人知れず孤軍奮闘している“物言わぬ”機械に自分の気持ちを寄り添わせている。すでにそれは機械ではないと。

日本の国力が弱まり、世界に誇れることも少なくなったと感じている多くの日本人が、素直に、しかも健全に喜べるイベントという感じがします。

世の中何でも権利義務で考え、自分の行動を認めてもらいたいというエゴがはびこる今の日本で、“名もなく一途に黙々と地味に努力しているもの”は、もはや機械しかないのかも知れない。物言わぬ機械だからこそ安心して自分の気持ちをそれに乗せることができるのかも知れない。

アメリカのNASAで同じようなことをした時、アメリカ人はこんなに泣くのだろうか?ひょっとしたらこれも日本人の特徴のひとつなのかもしれない。ちょっとそんなことまで考えてしまいました。自信はありませんが、このようなことで涙できるという感情表現がとても日本的で、ひょっとして日本人が世界に誇れる「やさしさ」のひとつであって欲しいなあ、、そんな気にもなりました。

日本人の情緒的「民度」の高さに久しぶりに触れることができたような、そんな一服の清涼剤のような時間でした。
ちょっと考え過ぎですね。そんな風に感じた僕自身、少し疲れているのかも知れないとも思いつつ。
c608c7e6cd749370c35fddc24252dfde_t.jpg はやぶさ2 180728_ryugu2.jpg
(写真はJAXAのHPより拝借)

カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/07/11 Thu. 23:13    TB: 0    CM: 0

梅雨に想う 

梅雨に想う

また随分筆が止まってしまいました。このブログもたまにしか更新しなくなっています。と言うのも、ヒューマニーズ社の方は事実上卒業したとは言え、社団法人での研修講師やコンサル業務(組織風土改革とか次世代幹部養成塾)も増えてきている上に、他にも結構いろんなことに手を出していて、多動症がまたひどくなってきているからです。少し優先順位をつけて時間の整理をしなければならない状況です。

最近は時間の合間を縫って、ボランティアでベトナム人の看護師と介護福祉士候補生の日本語テューターとか、市民大学のお手伝いとか、はたまたサックスのレッスンとかですが、会社組織でやってきたものと違って、何から何まで自分で考えて準備して行動できる環境になかなか適用できていないようで、時間配分などがうまく行っていないためです。少しずつこの新しい時間の使い方や、自分の情緒に合った力の入れ方などに慣れていかなければならないと思っています。

まあそのことはまた追い追い書こうと思っていますが、今回は今まさに梅雨まっ盛りでもあり、雨について書こうと思います。かなり前のブログにも書いたような気もしますが、私は「雨が嫌いではない」タイプです。「好きです」というには抵抗がありますが、特に文章を書いたり本を読んだりするには圧倒的に雨の方が集中できるし、その空気を楽しむことができます。好きと言えないのはどこかに罪悪感があるような気がするからで、まあ晴れがいいし、その方が健康で明るくて陽性ですよね。

しかし、正直に生きることもとても大切なわけで、そういう自分がいることは確かです。これは子供の頃からそうだったようで、両親が働いていて家に一人でいることが多かったこととも関係すると思いますが、晴れていない方が家にいても不自然でないと言うような気持ちの落ち着きもあったような気がします。

雨の日は空気中の騒音が少なくなるのか、雨だれの音にかき消されるのか、独特の静寂感があります。また植物の緑も生き生きし、自然がアクティブにならなくても許される「内的な」美しさを取り戻す文字通りの“みずみずしさ”に、自分の精神まで地に足が着いたような落ち着きを取り戻します。

学生の頃1ヶ月あまりお世話になった鎌倉の建長寺(この話も昔ブログに書いてあると思います)でも、雨の日はあの素晴らしい庭を見ながらの読書が許され、司馬遼太郎や川端康成などの世界に入って行って、まるでその時代や本の世界の主人公になったような一種の変化(へんげ)感覚を味わったものです。
晴耕雨読とはよくぞ言ったものですね。

マレーシアのジャングルにいた時も、サンフランシスコのアパートから見ていた景色でも、それぞれ「雨の形」は随分と違っていても、大地に振り注ぐ雨粒と雨だれの音に心が洗われた感覚には共通するものがあります。生き物は海から来ただけあって、水との親和性は高いはず。水は命でもあるし、人間にとっても生きる上で決定的に大切なものです。

しかし近年、温暖化の影響で水が昔にはなかったようなレベルで大きな損害を与えることが多くなりました。メガクライシスというのか、恵みを超えて破壊をもたらすケースが多くなっています。僕もちょうど東京の学生だった頃、尾道の実家が土砂崩れで流され、幼馴染を含む周りの人が8人亡くなりました。あれは9月12日で台風の豪雨でしたが、降り続く雨の怖さを身を以て体験しています。幸い両親は命からがら助かりましたが、長く入院していました。あの家があったあたりは今もスキー場のゲレンデのようになっていて、とても住めるところではありません。同じような災害が毎年この時期になるとニュースになります。雨を“愛おしむ”などとんでもない、という話です。

それでも、特に“一人でいる時の雨”は今も好きです。幼児体験であり三つ子の魂なんとかですかね。毎日降る雨に家内は愚痴を言い、満員電車に揺られるサラリーマンにはジメジメと嫌な季節ですが、とりわけこの歳になって思い出す雨には多くの良い思い出があるのも事実です。災害に遭われた方々には本当に申し訳ない気持ちで一杯なのですが、僕にとってはやはりいろんな思い出のある「雨」です。
5e602c7cbcb876486a6207d99f6ae284_t.jpg ad694a03f266ef2b9cec01ee9dbecc9d_t.jpg e02a58cb6ea03cf11d6e4a071fa30fab_t.jpg 98d7f3a428d0b91353eb0ce23c5f7764_t.jpg



カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/07/08 Mon. 15:46    TB: 0    CM: 0

接木という事業継承を終えて  

世の中もかなり「令和」に適用し、落ち着きを取り戻してきました。一生に一度あるかないかというようなイベントが一段落して一種の「令和疲れ」のような空気もありますが、これからオリンピックに向かってまた全国民が走ることになるのでしょう。「令和」のことは、天皇制や、それを通して「日本」を考える良い機会になったように思います。

ヒューマニーズの社長から会長になり、現場を退いてもう少しで1年になります。経営者はいつか事業継承に踏み出さなければなりませんが、それも体力と気力があるうちに実行しなければ後悔することになります。私もこの数年そう思い実行してきましたが、1年経って会社も新しい体制の下また新たな成長に踏みだしていることを実感しています。

「接木」という言葉がありますが、新しい力を元の幹に継いで元の社員も新しい指導者の下、新たなギアで別の力を発揮しています。この接木はまあうまく行ったとホッとしているところです。http://www.humaneeds.co.jp

この1年はひとつの山を越え、私にとっても新しいペース配分を模索する1年でした。これからこのブログも少し違う立ち位置で書けることもあると感じていますのでまた再開したいと思います。本当に久しぶりのブログですが、今日は少し最近自分がやっていることを書いてみたいと思います。

今は少し前から始めていたコンサルタントや研修に軸足を移しています。自分としては、メンタルヘルスの“社員を守る”から“社員を強くする”ことにシフトしているつもりです。この3年くらい、一般社団法人としてですが、次世代の幹部社員を対象に「考える力・発信する力・活用される力」をテーマに、次の会社を担う人材を養成する企業向けの研修や現場管理職に「ボトムアップ」の風土形成を促す研修をしています。

また市民大学のお手伝いや通訳ボランティアの活動にも少し時間を割き始めています。時間がなかった時にはできなかった世界ですが今までとまったく違う立場に立つことで見えてくる新たな学びがたくさんありそうな気がしています。

また、我流で長くやってきた音楽活動もアクセルをふかして行きたいと思っていますが、並行してサックスの個人レッスンを受け始めています。身についてしまっている自分の欠点を修正し、まだ演奏者としてさらにワクワクできる新しい自分を発見できないかという挑戦です。同時に編曲のための楽典も習っていてそちらにも力を入れていきたいと考えています。これは介護施設などでの演奏に繋がっていて、「音楽の力」、「生演奏」の力の持つ効力感に意を強くする毎日です。

世の中タフな事件が増えています。「平成」は確かに“戦争のない平和な時代”ではありましたが、それで何を得たのか。新しい「令和」の時代にどう対処するべきなのか、人と話しながらそう言う懐疑感に囲まれているような気がします。またいろんなことを感じ、その意味など自分なりに考えて行きたいと思っています。

カテゴリ: 社長ブログ

[edit]

Posted on 2019/05/18 Sat. 13:59    TB: 0    CM: 0

新年明けましておめでとうございます 〜「天皇の世紀」と新元号に思う〜 

新年明けましておめでとうございます。
2019年に入って初めてのブログになります。
昨年はいろいろ盛り沢山のイベントで落ち着かないことが多かったので、今年は少し“内的”な自分を充実させたいと思っています。と言ってまずは“フィジカルから”というアプローチをしたのが失敗(笑)で、インナーマッスルを鍛える体操のし過ぎで正月早々腰を痛めたり孫からうつった風邪などであまり良いスタートではありませんでした。自分ながら単純な思いつきに反省しきり。

今年は元号が変わりますね。天皇の生前退位というのはあまり経験できないことなのでつい考えてしまいます。昔「天皇機関説」というものを法学部の授業で習いましたが、明治の憲法下での天皇の統帥権のようなものと対峙して盛んに論じられたように記憶しています。「人権」と紐づけられて戦後の風潮の中で論じられていましたが、今から思えば現憲法でいうところの「象徴」の方がまだ「機関」より人間的であるように思います。会社でもワンマン社長のことを“天皇みたいだ”ということがありますが、「天皇」という言葉には、そういう意味で違和感を持ったものです。機関より象徴の方がオーガニックな感じがするけど、同時に象徴は抽象概念であり過ぎて何かから逃げているようにも感じますね。

少なくとも日本の「戦後文化」の下では、天皇も人であるということが強調され、メディアでもことさらその人間的な部分が取上げられてきましたが、それが過去への贖罪という以上に、人としての天皇陛下(あるいは皇室)への興味を持つ正当性(というよりそのことに対して何かしら嬉しさを醸し出す方が視聴率を稼げるという感覚?)に裏づけされたものであることは間違いのないところであろうと思います。そうすると結局は人格的な魅力とか立ち振る舞いから受ける“個性”から遊離して話をすることは意味を持たないと言うことになります。

いっとき盛んに論じられた生前退位の是非についても、この「天皇というもの」を日本という国家がどう「機能」として捉えるのかという事と不可分で、このように天皇がすでに”人間としての個性”という情報の中で捉えられるようになった時点でそういう無機質な語感のある「機能」を云々することにまた違和感を覚えたものです。特に海外に住んでいた時に昭和天皇と現天皇(もっと言えば明治天皇まで)をいずれも「エンペラー」と呼ばれる存在として説明しなければならなかったことに難渋したことを思い出します。少なくともあの大佛次郎の“「天皇の世紀」という言葉で語られる日本”にはもう二度とお目にかかれないと言う寂しさがあるのは僕だけでしょうか?

この話は難しいですね。ともあれ、新元号は何となく想像ができる範囲の名前になりそうな気がしますが、昭和・平成・??という“3つの時代を生きた”と言われる人がこんなにも多い長寿社会の一員になることに誇りを持つのか恥ずかしさを感じるのか、、、やや複雑な気持ちで新年を迎えました。内憂外患の多き2019年ですが香り高い良い年になれば良いですね。今年は昨年よりブログを更新するというやや惰性的ながら新たな決意をしておりますので、また皆さん宜しくお願い致します。

IMG_0411.jpg IMG_0493.jpg

カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2019/01/07 Mon. 19:53    TB: 0    CM: 0

続トランプ大統領雑感 〜ノーベル賞・ゴーン元会長で考える日本の民度〜 

先日トランプ大統領のことを書きました。あれから2週間ほど経ちますが、またマティス国防長官を解任というニュースを聞き、彼があくまで「トランプ」であり続けていることにある意味ホッとするという不健全な気持ちを持つと同時に、ここのところの株の暴落などにみる世界経済の不安定さは、トランプを初めとする各国の自国閉鎖主義がその原因のひとつであると思うし、考えたくはないけれど先の2つの大戦前夜を連想してしまう年の瀬になってしまいました。

前回のブログで本庶先生のノーベル賞とゴーン元会長の今回の刑事事件がこのトランプ大統領のことと関係があると言いましたが、ちょっと今回はそのことを考えてみたいと思います。

まずのノーベル賞のことから。今までのノーベル賞の受賞者は圧倒的にアメリカ人で、多くは西洋先進国の人です。アジアでは日本がダントツのトップで、当然日本人の優秀さを誇っても良いと思いますが、これから先はどうだろうと考えてしまいます。その理由は、個人責任文化へのシフトが不十分なまま“短期での成果を求めることで無駄をなくそう”という考え方が進んでいると思うからです。日本人がなぜ優秀か、というのは日本の民度が高かったからで、それは日本の個人の評価というものが近視眼的ではなかったことと関係するのではないかと思っているからです。今の日本の方向性は外資系などにみる西洋文化の中で形成された評価制度のような考え方を学問や研究開発にも当てはめようという風潮が感じられます。

これは日本が貧しくなってきていて、「効率」の定義を昔のような尺で考えられなくなってきたからです。このことは経済的なことと関係がないとは言いませんが、実は経済力と国力を連動して考えること以外の日本固有の価値観・価値基準が衰退しているからではないかと。これは資本主義やグローバリズムへの適応ニーズがもたらす負の効果といって良いし、今必要なのはいわゆる「リベラルアーツ」を軽んじる風潮(価値観の貧困化)への警鐘です。

時間をかけて育むことでしかできないことは匠の世界から夫婦の愛情に至るまでこの世の中にたくさんあります。それは人がオーガニックにしか成長しないということだと思うからです。そういう価値観をもつことに今我慢が必要とされるようになってきて、その我慢ができるには経済的なゆとりが日本の社会からなくなってきてしまった。会社の経営、教育、研究開発、子育て、家庭、文化など枚挙に暇がありません。この問題はデータエコノミーやAIによる新たな水平線の中で人間の存在価値をどう考えるかと言うこととも表裏一体のテーマです。

トランプの「短期決戦型勝利の法則」の欠陥とこのことは根っこが一緒。世間が我慢する価値を文化として失ってきて、民主主義はポピュリズムという欠点を通じてそれに便乗する人物を指導者にする。大きな成果には時間と失敗は必要で、文明を画期的に進化させるような発見はその何千倍もの失敗や無駄があり、それを許容する文化が無くなってきたように思います。

もうひとつのこと、そう日産のゴーンさんのことです。これはノーベル賞で議論した話の裏返しで、日産を再生させた傑出した能力をもつ人物が落ちた墓穴の話とも言えるし、日本人(この場合特に社員)が寄ってたかって突出した異質な外国人に対して持っていた不満感を解決し溜飲を下げようとする意図が隠れている行為とも言えると思うのです。突出した強さや能力を持つリーダーを求めつつも同時に皆があまり差を持っていないことに居心地の良さを感じる日本的社会主義(平等主義)の矛盾です。

トランプの場合は、庶民の屈折したヒロイズム礼賛のエネルギーがその正当性の裏付けとなっていますが、ゴーンの場合はどこか用済みと判断した狡猾な集団意識を感じたりします。検察が起訴する背景の話で具体的に日産の現経営陣がどういう動きをしたかは知りませんが、日本人経営者ではゴーンのような人物はなか現れなかっただろうし、あの時点であんな成果をだせる人は他にいなかった。その代りにあのような疑わしい背任系の行為もしなかったし、訴追されるような事態にはならなかっただろう。

僕は随分海外との関わりの中で仕事をしてきましたが、やはりトランプ大統領とゴーンさんは米国人とヨルダン人(と言ってよいかは?ですが)であり、本庶先生は日本人だとつくづく思います。いずれも優秀で突出した能力を持っているので普通の人ではありませんが、能力の基盤とその表れが違う。大切なことは数字などの客観性・中立性のある尺度は、時間の幅をどう考えるかということが重要だし、時間によって成果が違うことは環境がどこまでそれを許容できるかという問題でしょう。厳密主義は大きな成果を得られないことは歴史が証明しているし、効率が良いとは非常に難しい注意を要する言葉だと思うわけです。

なんか居心地がよくない年末ですね。歴史はこの平成最後の年をどのように評価するのだろう。

カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2018/12/25 Tue. 17:37    TB: 0    CM: 0

喧嘩で勝つ方法 〜平成最後の年のトランプ大統領〜 

早いもので今年もあと半月くらいになってしまいました。しかも平成も今年が最後と考えると、時の経つ速さというより“歴史になっていく日々を過ごしている”と言うような感覚がどんどん強くなっていきます。最後の年だからこそ「平成」を考えるというテーマで書いてみます。

社長を退任して6ヶ月近くブログを更新していませんでしたが、僕にとって今年の最大の関心ごとは何と言ってもあのトランプ大統領です。戦争と喧嘩は先に攻撃した方が有利に進められ、常識を振りかざした方が負けます。つまり自分の怒りの感情に正直な方が多くの場合初動で勝つと思います。怒りは一番強いエネルギーを与えてくれる感情だと思いますが、それを抑制している間に攻撃されると、つまり格好をつけている方が負けるということです。国のトップにそういう人物が就任することもままあって、南米とかアフリカなどには今でもそういうトップはいるでしょう。だから、最大の関心ごとであるという理由は、あのアメリカという超大国の大統領にその種の人物が選ばれたということです。「パックスアメリカーナ」はとうの昔に終わっているとは言え、その意味では歴史的に大きな曲がり角のような特筆すべき現象、何かに駄目を押すようなことが今起こっていると言う感じがしています。

会社を経営していて、自分が如何に常識家でバランスを重んじるタイプかということを、ネガティブな意味で何度も思ったことがあります。もっと言えばサラリーマンタイプと言うか、組織の一員タイプというか、理性に価値があると思い過ぎていると言うか。まあこういうことは人間の「タチ」の問題なのでとやかく言っても仕方がないことながら、そうでないタイプの経営者を羨ましいと何度思ったことか。どこが羨ましいかと言うと、変な意味ではなく、悩みが少ないと思うからです。悩みは想像力から生まれます。想像力が大きい人の欠点は判断する材料が多くなると言うことです。経営は複雑な要素の中で判断することではありますが、先に行動する能力がある人の方が新しいことができると思うし、特にイノベーションというのは過去の積み上げではなく直感力を優先するタイプでなければできないと思うからです。まあ守りに強い人は攻撃に弱いという言い方になるのかもしれません。「バックキャスティング」という言葉がありますが、まあ演繹法的に物事を考える能力がなければ創造性に繋がりにくいと言ってもいいでしょう。

トランプでなければできない大胆でシンプルな行動をアメリカがしている。しかもトランプ個人のパーソナリティーそのものをそのエネルギー源にしているという行動をアメリカという国家がしているというところが凄いことです。オバマ元大統領はは理性とか愛とか理念と言う方向性を大切にし、教養の価値を重んじる「大人」でしたが、トランプはよく言えば映画の「ロッキー」のようなヒロイズムに憧れる人物、シンプルでパワフルで勇気溢れるわかりやすい人物、損得に正直で偽善のない人と言えるでしょう。

メンタルヘルスの世界では、自己把握力とか、起こっていることを客観視できる能力が高い方がストレス耐性が高いと言われます。最近レジリエンスとか首尾一貫感覚(SOC)などとも呼ばれる一連の能力のことです。しかし僕に言わせるとこのトランプタイプの人が一番ストレス耐性が高いのではないかと。攻撃型の人にストレスがないと言う訳ではないでしょうが、自分に対して複雑な感情を持たない分、それが「うつ」などにつながる可能性は低いような気がします。

彼の登場に象徴される“思考や行動の単純化と明確化”は(一種の無責任化を内在している訳ですが)今や世界の潮流となってきていて、Brexit やフランスの暴動などもこの流れの一つだと思うわけです。所得格差だなどの不満が大きいエネルギーになって臨界点に達してきたとも言えるけど、それを行動に移すのはこう言ったトランプタイプの行動パターンと無縁ではないと思う。

しかし日本人はそこまでエネルギーが高くないのか、行動の単純化をやはり侮蔑するほど教養が高いのかどうか分かりませんが、特に若者が行動を起こさなくなって久しい気がします。60年安保を最後にそういうことが社会現象にならなくなった。一方、災害ボランティアに手を上げる人が多い。日本人は優しいのか大人しいのか理性的なのか。国民性とまでは言わないが、グローバルな競争では今もって弱い。それは誇れることなのかも知れないが負け惜しみにしか聞こえないことも多い。ただし同時に大切なことは、戦争も喧嘩も長期戦になるとトランプ型が強い訳でもないことは歴史が証明しているということ。さらに言えば、本庶先生のノーベル賞とゴーン元日産社長の話とこのことは関係があります。そのことはまた次に考えてみようと思っています。

今年一番の寒さになってクリスマスを迎えることができると期待し、もう平成ですら終わると言うのに昭和への郷愁を感じている自分に気づきます。年齢のせいだけでしょうか?

カテゴリ: プライベートブログ

[edit]

Posted on 2018/12/12 Wed. 18:42    TB: 0    CM: 0

self-drivenな社員とブータンの国民総幸福量(GNH) 

来週、中小企業の社長さんたちが集まるあるセミナーで話をすることになっていて、今日その打ち合わせをしてきました。それは、若者の離職はどうしたら食い止められるか、どうしたら社員を戦力化できるか、というような話です。会社や仕事に魅力がないから、と言えば簡単ですが、じゃあ魅力とは何なのか?
というようなことになってこのテーマは実に深い話になります。私はサラリーマン時代の最後の時期に海外で社長を少しやっていてそれも入れると20年以上経営をやっていることになりますが、結局一番難しいことは社員の生産性を上げることに尽きると思っています。人の能力は意欲や士気で測ることができる、と前回のブログで書きましたが、外資系の社長をやっているとき、self-drivenという言葉をよく聞いたことを思い出していました。これは文字通り自ら動くという意味で、実際には自分でモチベーションの高い状態をキープして組織の中でアクティブに動くような社員を指して使っていました。常に自分で考え、いろんな提案をしたり、業務改善をしたり、業績を上げたりできる人材です。要するに“指示待ち人間ではない”わけです。問題はどうしたら人は組織の中でそうなるか、ということです。

会社の中では、モチベーションを刺激するのは給与などの「外的報酬」などより、達成感とか、必要とされているという充実感とか、自分にしかできない仕事をしているというようなプライドなどの「内的報酬」が重要であると説明していますが、それはとても大切なことです。ただし、EAPの仕事をするようになってから、実は、これはその人が生まれ育った環境や、生まれつき持っているパーソナリティーなどが大きく影響するのではないかと考えるようになりました。そんなことを言い出すと、どうやってそういう人を選ぶのかということになり、人の採用の方に話が言ってしまいますが、やはり基礎的な素質は無視できないことは事実です。Empowermentという言葉があります。パワーを与えるということではなく、その人の持っている能力を最大に発揮させ、業績を上げたり、組織の成長に大きく貢献できるような人、というような意味で使っています。中小企業であれ、大企業であれ、その人がその場を自分の自己表現の場としてベストな場だと思えばself-drivenになると言えます。

最近「他罰的」とか「他責的」という言葉をよく聞きます。メンタルヘルスの世界でも、他人や周りのせいにするという姿勢は不平や不満を常に抱えていて、精神衛生上好ましくないと言いますが、人が生き生きと仕事をするときには全てを自分の責任にできるような環境肯定型の心境になっていると思います。
自分の中に全ての原因があるという考え方は多くの宗教で幸せになる方法として挙げています。別に宗教の話をしたいわけではありませんが、所詮、人いうのは個人であれ組織人であれ、幸せになる(幸せと感じる)方法、あるいは条件は同じ根っこを持っていると思う次第です。ブータンのGNHの話もself-drivenな社員の話も同じ人の話です。

人は気分で仕事をする。自分は幸せだと思うにはどういうことに気をつけたらいいのか、会社は社員をどう扱うとこういう社員が多くなるのか、、会社の総幸福量はどうやったら上がるのか?答えは難しいのですが、永遠のテーマですね。

カテゴリ: 社長ブログ

[edit]

Posted on 2018/06/14 Thu. 01:20    TB: 0    CM: 0

プロフィール

カテゴリ

カレンダー

リンク

検索フォーム

最新記事

月別アーカイブ

QRコード

RSSリンクの表示