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大谷光彦のブログ

㈱ヒューマニーズの会長と一般社団法人組織・人能力開発研究所の代表理事をしている 大谷光彦のブログです。

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「ヒト」ではなく「人」になった難しさ 

(前回のブログの続きです)

“人は能力ではなく意欲で仕事をする” の続きですが、能力というのは、“より有利に生きていける技術”というようなことでしょうか。教育や努力によって高めることができる力という感じがします。スキルのようなものも含まれるでしょうね。でも、人の力とか勢いというのは能力ではなく、気持ちとか生理的な力である、ということを言いたいのです。

「人間は知的動物」という言い方をしますが、これも非常に注意を要する言葉です。メンタルヘルスと言うのは、人の原点に回帰することにかなり近いという感じを持つに至っています。余裕があるとき「ヒト」は「人」を自覚しますが、余裕がなくなると「人」という自覚はなくなります。大震災や火事のような自然災害が突如襲ってきたとき、人は動物になります。「脳」を経由しない行動をとります。このことは知的動物という言葉の本質を語っていて、知的ではない動物もやはり僕たちは「人」と呼んでいるのではないかと思うのです。

意欲は感情であり、感情は生理であり、主観であり、余裕があるほどその理由や原因を探す動物なのかも知れない。今の日本は未来を複雑に考えられるほど豊かになり、未来をシンプルに考えられないほど貧しくなった。メンタルということはそういうことを考えることなのでしょう。

メンタルヘルスをビジネスとして考えることに戻ります。ヒューマニーズの仕事を格好良く言えば、社員を幸せにするお手伝いをすると言うことになります。それができれば会社は利益を挙げられます、という文脈です。
こういう視点で、我が社の役割を重要さで順番にすれば以下のようになると思います。
1. 気持ち(つまり意欲)が低くなった人をこれ以上低くしないようにすること
2. 意欲が元に戻るようにし、かつまた落ちないようにすること
3. 簡単には意欲が落ちない人にする、またはそれを可能にする職場環境にすること

この中で一番難しいのが、3の「意欲が落ちにくくすること」です。これが永遠の課題です。人はどういう条件を与えた前向きな気持ちになるのかさせるのか、しかもそれを会社という組織の中で実現する、そういうことの難しさです。

メンタルヘルスというようなものが医療のテーマになったり、ましてや人事コンサル的なテーマになるほど日本は豊かになったとも言えるし、豊かさの難しさをまさに今突きつけられているとも言えるのです。

お腹一杯食べて、何の悩みもなく、何の恐怖もなく、ただひたすら眠りに落ちることができる我が家の17歳の老犬、バルザックに学びます。

たぶん、このような背景で捉えるメンタルヘルスは、きっと「自分と向き合うこと」だったり、「自分を肯定したりそのまま受け入れる」ことだったりするのだと思っています。難しく言えば自己客観視ですか。実に逆説的に余裕がないが故にそれを余裕と感じる境地ではないかと。

シンプルな「幸せ感」は、身近で、そして本当に足元にあって、だから気づかない。まさに「青い鳥」ですね。それに気づくのが難しいほど情報が氾濫し、お利口にならなければならないという洗脳が横行している。そういう時代であるがゆえの現象なのでしょう。

こう文字にするとこのテーマがいかに難しいのか分かります。特にビジネスとして考えたとき今だに手探りで、シンプルに語れないもどかしさを感じます。

「ヒト」は簡単なのに「人」は難しい。自分は簡単なはずなのに考えることは自分を難しくする。ましてやそれをビジネスにすることはやはり難しい。

17年間走ってきましたが、経営者として“自分と向き合う”ことを学んだ17年間でした。そしてそれによって幾らか成長させてもらったような気がします。
それ自体が僕の、僕のための、メンタルヘルスだったように思います。

会社のことはやはり難しい。社長辞任関連のブログはこの2回でやめてまた次回から普通の自分のブログに戻ろうと思います。ヒューマニーズのお客様(企業とその社員の皆さま)と、長くこんな社長に付き合ってくれた社員に感謝します。ありがとうございました。

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Posted on 2018/06/04 Mon. 23:21    TB: 0    CM: 0

人は「能力」ではなく「意欲」で仕事をする 〜ヒューマニーズの社長を辞して〜 

5月末日付で(株)ヒューマニーズの代表取締役社長を退任し、本日付で会長となりました。創業以来17年近く代表を務めてきましたが、会長と言う半分名誉職のような立場になりましたので、少し実務を離れた立場で会社を見られると思っています。今日から何回かヒューマニーズのことを少し書いてみたいと思っています。

2001年に脱サラをしてロンドンに親会社のあるコンサルタント会社の日本法人の代表になったのがそもそもの始まりです。その子会社として従業員のモチベーションマネジメントのひとつとしてのメンタルヘルスに着目し、ビジネス化してきたのがヒューマニーズです。

メンタルヘルスというのは「人」の深いところと格闘することであり、まさに人の根幹に位置するような領域に踏み込む作業になります。我が社は会社の従業員を対象とする、いわゆるEAPをなりわいにしてきましたが、このサービスは、心の問題が会社の中の問題だけではなくその人のパーソナリティーやプライベートな領域とも不可分な問題であることを前提にしているため、職場や組織の話だけでは終わらない非常にデリケートで複雑なサービスになるわけです。

そこがいわゆる体の健康という伝統的な保健領域と異なるところであり、文明の発達した現代では身体の健康が占める課題は格段に縮小し、多くはメンタルと言われる、心の、つまり脳の、不可解な感情を含む広範囲でかつ医学的にもまだまだ未知のメカニズムを相手にするということは、それ自体残されたフロンティアのひとつと言っても過言でないと思ってきました。従って、今振り返って見ると、それをビジネスにすること自体とても難しい課題を終始抱えてきた、という印象を持っています。

メンタルヘルスビジネスは、一方で医療業界、一方で保険業界の一部のようになっています。人件費がもっとも大きなコストであることを考えるとその生産性と会社の利益は非常に密接に結びついていて、「健康経営」という言葉が今流行っている理由もそこにありますが、今まで私はそれらと一線を画した経営をしてきました。もちろん顧客企業の産業医や人事労務の方との連携はとても大切なサービスの根幹ではありますが、少なくとも経営という視点ではそれらから独立した、むしろ人事コンサルタントのような立ち位置を大切にしてきました。それはヒューマニーズが英国系人事コンサルタント会社の一部としてスタートしたからでもあるし、私自身がメンタルヘルスの専門家ではなかったことと関係しています。

人はとても厄介な「感情」という大きくて無視することができないエネルギーに支配されて生きています。自分の損得や好き嫌いは常に理性的・合理的な判断を蹴散らします。どんなに綺麗ごとを言ってもそういう感情の生理現象から逃れることはできません。そう、人は好きなことと得なことしかしないのです。
だから、不愉快さ、自信のなさ、面倒くささ、希望のなさなどネガティブな気持ちに支配されながらすることは何であれ力を発揮でないし、ましてや仕事など前向きにできるわけがありません。場合によっては歩く気力、食べる気力、話す気力もなくなる、そして生きる気力さえなくするような根源的な影響を与えるのです。とても苦痛であり必死に自分を「理性的」に奮い立たせなければ前に進むこともできませんが、そのエネルギーさえ失われてしまうということが起こります。

私は医者でもないしカウンセラーでもなく単なる経営者でしかありませんので、専門的にこの事を理解しているわけではありませんが、このビジネスを通して、人の意欲というものがどれだけ大きな存在か深く考えるようになりました。

“人は能力ではなく意欲で仕事をする”のです。  (次回に続く)


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Posted on 2018/06/01 Fri. 17:32    TB: 0    CM: 0

重力とウンベラータとバルザック 

長い連休が今日で終わりですね。前半は仕事と編曲、後半は食事に出かけたり孫4人が来たりして、それなりに「安全・安心」な休みでした。もう駄目だと思っていたウンベラータがこの連休中に生き返ったように新芽をつけて嬉しい限りでもあり、今日はカープが逆転サヨナラ負けで後味の悪い休みになったこと以外は、天気も穏やかで良い数日でした。植物の生命力にも脱帽。
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最近は夫婦ふたりに17歳になる老犬の3人(?)家族で、いたって平穏で安定した変化の少ない日々を過ごしていますが、いまやとても大切な家族の一員になったこの老犬のバルザックを見ていると“明日は我が身”と思うことも多く、いろんな勉強をさせてもらっているような気持ちになります。
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バルザック君の目は僕よりひどい白内障でほとんど光しか感じないし、名前を呼んでもまったく反応しないので耳もまったく聞こえない。嗅覚も、鼻の前5センチに餌を持って行ってもわからないくらいだから、犬としてはほぼ能力喪失と言ってよいでしょう。でも数年前に膀胱ポリープの手術をした以外病気という病気もせず、1日2回の餌は常に完食。少し前ドッグフードを食べなくなったことがあって、歯が弱っていると考えミキサーで粉状にして水を混ぜてペースト状にして与えると素晴らしい食欲が復活して完食。消化器系はかなり元気であることがわかります。寝ている以外は時計周りにぐるぐる回る行動を繰り返し排泄は場所を選ばないので認知機能に少し問題があるのかも知れませんが、相変わらずフレンドリーでとても穏やかです。毛を触ったら認識するので皮膚知覚は正常であることがわかります。

適度な運動ができて食事ができさえすれば、人のように将来を悲観することもなく、雑音も入らない闇に穏やかな静寂の世界を見出しているようで、あくせく希望だの絶望だの利益だの孤独だの、そんなことを考える人が如何にややこしい動物であるかに気づかせてくれます。もっとも何もしなくても餌をゲットできるので恵まれていることは間違いありませんが、平穏とは何かをつくづく考えてしまう訳です。生きることに目的など必要なのかと。

ひとつ新たな発見がありました。抱き上げると暴れます。理由をずっと考えていたのですが、思い至ったのは重力のことです。平衡感覚があるのに目も耳も鼻も効かないということは、闇と静寂の中で宙に抱き上げられとても不安になるのではないかということ。人間もそうですが地球の重力に多くのことが支配されているわけで、大気圏を突き破って宇宙に行くことや、宇宙空間で人が暮らして行けるのか大いに不安になるところです。進化の過程でもっとも強く制約を受けている条件は重力なのではないかと思った次第です。人間の生理や心のあり方まで大きく影響を与える要素であり、その重要性は全てに優越するのではないかと思うほどです。ウンベラータがこうやって命を繋いでくれるのも重力のお陰なのでしょう。

バルザックはあと何年生きてくれるかわかりませんが、抱き上げることを我慢して、その平和そのものの寝息に寄り添って行きたいと願って止みません。

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Posted on 2018/05/06 Sun. 23:39    TB: 0    CM: 0

明るくぼやけた景色 

本当に久しぶりのブログです。ちょっと身辺も落ち着いたのでPCの前に座ってみました。

2月に白内障の手術をしました。まだ年齢的には少し早いかと思いますが、右目が曇ってきて飛蚊症まであって仕事にも支障があるほどひどくなったので決断しました。世間で言われている通り簡単な手術で、1週間ぐらい洗顔洗髪ができない程度の不便さでしたが、問題はメガネの度合わせが難しいこと。多焦点レンズの人工水晶体もあるようですが、賛否両論あって主治医も反対するのでやめました。レンズはクリアーになってもピントを合わせる機能は回復していないから当然とは言え、メガネでの視力矯正がなければ明るいがピントの合っていない景色があるだけ。明るいことは有難いのですが実は飛蚊症もあって蚊は余計に鮮明に見えるから始末に悪い。さらに左目はまだ交換するのは勿体無いそうで、自分が親からもらった目のまま。持って生まれたものと人工のもののアンバランスもあるので話がややこしい。

医師も眼鏡店も“慣れるしかないですね〜”と言うのでそのまま我慢しながら生活しています。先日瀬戸内海の某無人島にお付き合いで上陸するイベントがあって、岩礁の間を歩いていたら足を踏み外して肩を打ってしまいました。パターのとき足元が歪んで見えるゴルフのグルーンのような状態でした。

老化はだれにでも訪れ、その訪れ方も様々だと思いますが、自分にもしっかりそれが訪れてきたことを自覚した事件でした。若いうちはいつまでも変わらないと無意識に思っているものだし、またそう思っていなければ仕事に攻撃的になれない。攻撃的になれなければ大した仕事はできない。まあ人並みに人類の必然にまた一歩足を踏み入れたということで、それを許容してこれからを過ごさなければなりませんね。必要なのは「脳」機能の適応なんでしょうね、きっと。

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Posted on 2018/04/12 Thu. 15:56    TB: 0    CM: 0

阿川佐和子著「強父論」を読んで 

昨年の夏に94歳で亡くなった阿川弘之のことを娘の阿川佐和子が描いた「強父論」が滅法面白かったです。彼女の文章の旨さもあるのでしょうが、暴君の父親を描きつつ、その父親に対して娘であり女である彼女が持っている“屈折した”愛情や敬愛の感情が、そこはかとなく鳴り響いているような本でした。読み進んでいるうちに、腹を抱えて笑いつつ不覚にも涙が出てしまう個所がいくつかあるのです。「男と女」の複雑で不可思議な関係が「父と娘」の関係を通してその深みを増して迫ってくる感じがあります。

強父論写真


たまたま今年は幸田露伴の生誕150年で、娘の幸田文、孫の青木玉、そしてひ孫の青木奈緒という女系の目を通して語る露伴の番組をNHKで見ましたが、女性の力を通して継承され残されていく戦前の言語教養とか身体文化の価値とどこか通じ合うものもあります。男性より女性の方が、そういう、特に身体文化に価値を見出し残す力があるような気がします。男のことは女性の方が解るのでしょうね。

シンプルであること、一貫しているということ、こだわるということ、自分にも他人にも嘘がつけないほど不器用であるということ。こんな男は現代の社会では生きてはいけないでしょう。存在してもその価値が評価されるどころか同情すらされないでしょうね。天然記念物なみの存在でかつDVの加害者扱いにされることでしょう。

前時代的で諸悪の根源のような「男」や「父」がついこの前までの日本に存在した証が展開されている本ですが、もう一度「男」や「父」を考え、自分の一見ヒューマンな考え方の偽善を思った次第です。

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Posted on 2017/07/09 Sun. 22:52    TB: 0    CM: 0

小林麻央さんにみる命と死のこと 

小林麻央さんが亡くなったニュース。
いろんなことを考えさせられました。

あれだけ連日ブログで体調や心の動きが発信された有名人の死というのはあまりなかったような気がします。
報道によると200万人以上のフォロワーがいたとか。言葉は適切ではないけれど、まるで実況中継されていたような闘病生活でした。その一挙手一投足に多くの人が一喜一憂し、一緒に祈っている、“彼女の日常の共有”を感じました。

皆の(「国民の」と言い換えても良いくらい大勢の)願いと祈りも虚しく残念な結果になってしまいましたが、多くの人に勇気と、また命について深く考える切っ掛けを改めて与えてくれたように思います。市川海老蔵さんの会見で感じたことですが、死を覚悟した先に、常に周りの人に”与える側”になり続けた人。菩薩のように慈悲の心を多くの人に届けたと言うか、とにかく残された家族に刻まれたとても格好いい「往き方」と言うか、そんな人だったように思います。

もうひとつ感じたことは、ひとりで死んでいって、その死を人に知られないような、いわゆる『孤独死』との対比です。人は所詮ひとりで死んでいく運命にありますが、周りに人が居て、ましてや多くの国民に心配されながら命を落とす麻央さんのようなケースと比べてみると、本当に今回、SNSの役割の凄さと言うか、そんなものも思いました。トランプと比較するのは不謹慎ですが、死まで実況してしまうような、少し怖さすら感じる現象をです。

死が身近になると言う事とは違いますが、ある種の劇場型の死と言いますか、、、死とプライバシーという問題につながるもう一つの問題のことも考えました。これからこういう、ある意味「シェアーされる死」という現象がテクノロジーの発達で抵抗なく繰り広げられる時代がそこまで来ているのかも知れませんね。

昔読んだ「南直哉(じきさい)」の本に、”死には3種類ある”という言葉があったのをまた思い出しました。もう死んだあとは自覚できない「自らの死」、そして毎日ニュースで繰り広げられる「他人の死」。この2つの死はその人の死生観や宗教心に影響は与えても、やはり人生の中で大きな意味を持つ死ではない。その人にとって一番重要なのは「近しい人の死」である、という意味の文章です。

麻央さんの死は、残された家族にとってはもちろん身近な人の死ですが、実は多くの人にとっても「他人の死」ではなかったかも知れない。他人と身近な人を近づける手段にSNSがなっていたとしたら、それは新たな死との距離感なのかも知れないと。

僕にとっても「他人の死」を超えた何かを残してくれました。心よりご冥福をお祈り致します。

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Posted on 2017/06/25 Sun. 18:27    TB: 0    CM: 0

京都と「よそさん」 

しばらくブログサイトに入らなかったら、入れなくなってしまいました。パスワードの問題のようですが、どこでどう間違っているのかわからないまま、何度かトライして最後に入れました。自分が借りている部屋に自分の持っている(つもりの)鍵では簡単には入れないという現象に辟易している人も多いと思いますが、「自分とは誰」ということが自分でも自信がなくなる今日この頃です。



抱腹絶倒の本を読みました。若い時は京都に住みたいと漠然と思っていたものですが、歳を重ねるにつれてその考えが変わってきました。京都という街と何代も前からそこに住んでいる人に対して感じてきて、それをどう整理したらよいのかもどかしく思っていた事柄を明快に言葉にしてくれています。笑ってしまいますがまさにシンプルにしてその通り。


去年有名になった本なので読まれた方も多いと思いますが、身内や身近に京都の人がいたらおそらく賛同して頂けるものと思います。


正面から抜き身で切りつけない優しく見えて決してそうではない表現力であったり、決して断定しないことで相手を油断させてしまう言葉の技術、自覚していないほど徹底している自分や京都への自信、長い歴史で時の権力にうまく従いながら自らのアイデンティティーを柔軟に変遷させつつそのコアの部分を巧みに保全してきた卓越かつ成熟した政治と外交力などなど。


中華思想と言えばそれまでですが、文化が深く発酵しながらそのレベルをこれほどまでに高めた都市を日本人として誇りに思い、その自分の屈折した気持がいじらしくも悲しい気持になるのは、都から遠く離れた地で生まれ育った田舎者の証明なのでしょう。もうひとつのタイプの都会人である江戸っ子なら京都に違った感想を持てるのにとも思った次第。まあいずれにしても「よそさん」と呼ばれるのでしょうが。グルーバルがはやされている昨今、一読をお勧めします。言い過ぎていたら京都の人、ごめんなさい。


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Posted on 2017/06/11 Sun. 23:00    TB: 0    CM: 0

トランプ現象 

トランプ大統領がついに誕生してしまいましたね。これが明るい夜明けなのか、ダイナミックな混乱の始まりなのかわかりません。
株の値段があがったと言う事は少なくとも閉塞感から解放されるという期待が先行したのでしょうが、どちらの可能性もあるので、“好奇心が満たされる”と言える程度には分析しておきたいと思っています。

色々言われていますが、まず驚いたのはメディアの役割が完全に変わったことに気付いたこと。そもそもかなり以前から「信頼できる」ニュース」というものと「信頼するかどうかの基準を持つ国民」というのが少なくなってきたところへ、今回のトランプのTwitter発信のド迫力です。大統領の記者会見なんか不要になってしまう。どんな情報でも信じる人がいて、どんな情報でも信じさせないこともできる。テクノロジーの発達は情報の位置づけを完全に変えつつある。

もう一つは『不満』のレベルを軽視し過ぎていたということ。それが大統領を生むほどに大きなエネルギーだったこと。もっと言えばトランプ選択のリスクより解放への期待の方がはるかに大きかったということまでわからなかったということ。

イギリスのEU離脱やこれから起こるであろうEUの解体ないしは各国の主権回復運動と合わせ、今年はパラダイム転換の年になるかもしれない。資本主義や自由主義は結局綺麗ごとで一部の人の利益にしかならなかったのか?資本主義がなかったらもっと貧しくなっていたのではない、という根拠が良くわからないのに、嫉妬や被害者意識という強烈な美酒に身を任している多くの人々。

“良識はどこへ行った”と最初思っていたけど、何が良識かということ自体がナンセンスな問いなんですかね。
国民の利益という曖昧で非現実的な言葉が跋扈して、他者の利益が自分の利益にならないということを正当化し、そのまま戦争が起こる大河の流れが生まれている、、そんな気がします。

トランプの言っているシステムは随分と昔に多くの国が経験して旨く行かなかったシステムなんだけだなあ、と先祖返りしている世界に深く悩んでしまう部分もあります。

“喧嘩すると考えてしまう方が負ける”ように、教育とか教養の価値が世界的に低下する気もする。残るのは技術だけ。発達してAIができて便利になって不幸になる。民主主義を放棄する歴史の新たな入口なのか?

まあ、こんなことを言っても仕方がない。まずは自分をこの環境に順応させなければならない?方法が解らないけどそれが今年の最初の仕事かもしれない。

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Posted on 2017/01/22 Sun. 16:49    TB: 0    CM: 0

正月雑感 新年再開号 

最近、ついFBで簡易に近況報告のようなことをする習慣がついてしまいました。
まあそれはそれで良いのですが、このブログを半年以上触らないでいたせいか、言いたいことがどんどん溜まってきていることに密かに気付いていました。
FBって言うのはひとつの癖ですね。何を発信したいのか考えると発信するものがどんどん無くなって、それがむしろ快感って言うような、、、
その点、このブログは自分の考えや感じていることを発信したいと思わないとなかなか発信できないようなところがあって、それが欠点でもあり利点でもある。まあSNSとしての根っこの部分(自己存在を知らせたい、同じ体温の人と同じ感覚を共有して安心していたい、自己弁護をしたい、認められたい、ひとりではない、、自慢したいなど)は同じなんだろうけど。

トランプ新大統領のこと、AIで人の仕事がなくなること、交通事故の死者が4000人を切ったのに自殺者はその5倍以上いること、シリアでのロシアとトルコの連携のこと、、、うちのバルザックが15歳になって様子が変わってきたこと、最近首が痛くて仕方がないけどマッサージでは治らないこと、近くに素晴らし(そうな)音楽ホールが建設中であること、、、冬には植物に水をやらない方が良いって言われたこと、、そして「僕のすべき仕事」ってなんだろうっていうことへの悩みなどなど、、、、、ああきりがない。

で、突然少し休みの日はこのブログをまた始めようかと思った次第です。年も明けたし。ならば「新年」という季語が使えるうちにと。まあ三日坊主なのでこの瞬間の感情でしょうけど。まあ他人にとってはどうでもいい話です。

この正月は穏やかな晴天が続きましたね。血圧が下がると少し気分が悪くなったりするようになった(歳のせい?)ので晴天の意味が、若い時に比べて少し違ってきているので余計に有難かった。

子供達がそれぞれ孫を連れて集まってくれて、賑やかに疲れる“有難い”三が日でした。歳をとってくると(なんだろうと思うけどそうではない気もする)、寂しさを癒したいという欲求の顕在化と、種の保存の達成感の確認と、一方的な無報酬愛に酔える心地よさなど、があるので「孫は可愛い」というステレオタイプの挨拶があるのですが、自分の可愛い感情をむやみに他人に表現するのは、故に醜い。まあそういう自己矛盾と言うか自己否定と言うか、僕が“あまのじゃく”なのでしょうが、まあ非日常的な感情を掌に包んだような正月でした。

そう言えば15歳になったバルザックが一段と老境に至ってきたようで、元来の“たおやかな”な性格が一段といぶし銀のようになってきまして、時の流れにゆったりと身を任せているような「大人(たいじん)」になってきました。

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時間があったら寝ています。
訳もわからずゆったりとした足取りで部屋を回ります。
食卓から落ちた食べ物にも気付きません。
焦点の合っていなさ風な目でじっと遠くを見つめています。
尻尾を振ってチヤフルに感情を表すことが少なくなりました。
孫を尊重しつつも、うるさがっています。

ああ、あと何日この子と過ごすことができるのだろう、、、無言で過ぎて行く抗いようのない時を感じます。

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Posted on 2017/01/07 Sat. 15:45    TB: 0    CM: 0

哲学的なバルザック? 

一昨日持ち帰った仕事を終え、昨日は昼に上京してきた娘婿の両親と会ったのち夜は友人と約束していた会食で蕎麦を食べ、あっという間にこの連休も特に何らかの成果も残さず慌ただしく過ぎようとしています。今日は連休の谷間の真空的一日。それで気になっていた植物のことから、何故か放置していた池田晶子の「41歳からの哲学」を手にとって読んでしまいました。

左はウンベラータという植物で、葉の形が実に美しく、のどかな昼下がりに楽観的で明るい空間を与えてくれるとても気にいっている一鉢。右は会社で死にかけていたのを持ち帰って何とか再生を願っていた蘭で、今年立派な花を付けてくれた一鉢(正確には2種類をひとつの鉢に入れています)。そして動物代表としてうちのバルザック君。もう早いもので14歳です。

ウンベラータ   蘭
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蘭は生命再生の成功例ですが、ウンベラータは葉が黄色になり明らかに様子がおかしい。育てるのが簡単だと言うので買ったのに。近くに住む“植物おたく”の息子に相談したら根腐れではないかと言うのでこれから鉢の交換をしようとしているところです。14歳になったバルザックは虚ろに空間を見て過ぎす時間が増えてきました。相変わらず愛くるしいこの子にも確実に老いが近づいてきています。

子供が育って親としての社会的役割が終わってしまうと、「仕事」をする理由として安易に説明できた「家族のため」というのも無くなってしまう。家族を最初から持っていない場合は常に”それを生きている”ので、こういう「潮目」はないのかも知れませんが、一旦家族を持ちその上で仕事をしてきた者としては、こういう連休には内省的なことを考えてしまうことが多い。俺は何をしているのか、と。

前もブログで池田晶子のことを書いたと思いますが、2007年に47歳の若さで亡くなった哲学者で、彼女の「14歳からの哲学」は子供向けの本の域を超えた名著でヒットしました。植物と命ということからまた今日また池田晶子を読みたくなって、本当に久しぶりですが、一度手にとって止めていた「41歳からの哲学」を読んでいました。

“物事を突き詰めて考えるのが好き”といういい方をすることがありますが、正確には”考えてもいないまま発言することが多い自分が厭”、というのが正しいのではないかと思っています。それは非常にやっかいで周りから嫌がられる性質です。上記の「社会的役割」などと言う言葉も、一種の逃げであり、だれも僕にそんなことは期待していない可能性が大きいわけです。

哲学というのは結局「死」について考えることです。死は究極の平等であり、死を避けられないというのは生物がどうしても受け入れるしかない事実です。でもこのウンベラータも蘭も死の事を考えません。もちろん動物であるバルザックも考えません。考えなくても死にます。

人間だけが死を恐怖として捉え、それ身構え、そして保険をかけ、医学を駆使して逃れようとする。でも死んだ人間と話はできないし、死が恐怖すべき怖いものなのかその証拠もないのになぜそうなのか、池田晶子はそう言います。彼女は死を恐怖していなかったようだし、自分を敢えて言えば地球ごと客観ししていたようなそんな無機質的冷淡さと言うか、鈍感さと言うか、孤高さというか、そんなものを持っていたように思います。小林秀雄が師であったと言うだけはある自己客観視力は半端ではないように思います。

羨望を覚えると言いたいのですが、自分はそうではなくて良かったと思っています。

人はそれぞれ違ったパーソナリティーを持っています。でも「現実」は大勢の人の観念によって作られていて、その「観念」の集合体を常識と言います。自分の観念というものをそれと切り離すことは容易ではないし、実際その切り離しに意味があるのか、から考えなければならない。

ウンベラータと蘭とバルザックには観念がなくて、ただただ僕が育てたいと言う自分勝手な欲の対象になっているだけなのです。でも、否、だから、はるかに彼らの方が幸せではないかと。少し暇であることは僕にはむいてないのかもしれないですね。こんなことを考えて幸せになる人間なんていないだろうから。。

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Posted on 2016/05/06 Fri. 16:31    TB: 0    CM: 0

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